北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第20話)
ドルゴンと順治帝――清

                    文・李順然 写真・馮進

 

清が都を北京に移した順治元年
一団の日本人が瀋陽から北京に向かった
一行は道中で万里の長城を目にした
北京では紫禁城も訪れた
摂政王ドルゴンとも会っている
清初の北京の街をあちこち見てまわり
一年ほど北京に滞在したあと
朝鮮経由で日本に帰った

 

ドルゴンと国田兵右衛門

もともと教会内にあった二枚の石碑が、礼拝堂前の両側の壁にはめ込まれている。そのうちの一枚は、清の世祖御製の天主堂碑記で、いまは文字がはっきり読めない
清の三代皇帝順治帝(1638〜1661年)は、順治元年(1644年)9月、中国・東北地方の瀋陽から北京入りしました。その一月余り後、つまり11月の初めに、一団の日本人が、順治帝と同じ道を通って瀋陽から北京に着きました。

 国田兵右衛門ら15人です。彼らはこの年の4月に、日本の越前の三国浦(現在の福井県坂井郡三国町)を船出し、松前(北海道南部)に向かう航海の途中、大風に遇って、現在のロシア領シベリアのポシェット湾に漂着しました。そこで現地の人々に捕えられたのです。一行は、清の首都であった瀋陽に送られたあと、さらに北京に送られてきたのです。

 国田兵右衛門らは、北京に1年ほど滞在し、翌年11月に北京を離れ、朝鮮経由で日本に帰っています。

 日本に着くとすぐに江戸に呼ばれて、取調べを受けました。そのときの記録が見つかり、それが『韃靼漂流記』(平凡社)という本にまとめられているのです。日本人の目に映った当時の清、そして北京の様子がうかがえる貴重な資料です。すこし抜き書きしてみましょう。

 瀋陽から北京の道については「北京までの道平に御座候」と書いています。順治帝の一行が通った直後だったので、かなり整備され、平坦だったのでしょう。

 「韃靼より引越候男女、35、6日の間、引も切不申候」という文字も見られます。35、6日かかった道中、北京に向かう満州族の役人やその家族たちの姿を、毎日のように見かけたようです。清の政権強化のため、遷都したばかりの北京に、多くの満州族を送り込んだのでしょう。

 山海関では万里の長城を目にしています。「韃靼と大明の国境に石垣を築き申候。万里在候よし申候」と記されています。国田兵右衛門は、万里の長城を目にし、それを最初に日本に伝えた日本人かも知れません。

 北京では、ときの権力者である摂政王ドルゴン(1612〜1651年)にも合っています。順治帝の叔父にあたるドルゴンについて「細く痩せたる人に御座候」と書き、ドルゴンが親しく声をかけてくれた様子も記しています。

 紫禁城にも入ったようで、午門近くの風景を「大手の御門には、大成石橋五つ並て置申候。……欄干には龍を彫付申候……」と書いています。

 ところで、国田兵右衛門らが北京を離れ帰国するにあたって、順治帝は朝鮮の国王、李 (仁祖)に「一行の日本帰国を助けよ」という勅諭を送っています。『清・世祖章皇帝実録』の順治2年11月1日のページに、次のような文字が見られます。

 「其の父母妻子を念い、遠く天涯を隔てたることを憫惻し、ラネに使臣を随はしめ、朝鮮に往かしむ。到着の上は船隻を備えて日本に送還し、該国君臣に朕が意を知らしめよ」

盛京宮闕から紫禁城へ

観象台は、1442年から1446年までの間に、四合院の配置にならって前後して紫微殿、東西の二棟、キ影堂などが建設された。キ影堂には「圭表」という日時計が置かれ、日影の長さを測定した。フェルビーストら外国の宣教師がこうした儀器の製造と観測に参加した

 『韃靼漂流記』にも、日本人の目に映った瀋陽と北京の比較が記されていて、北京が大きなことに驚いた様子が書かれています。瀋陽から北京にやってきて紫禁城に入ったドルゴンや順治帝も、きっと紫禁城のスケールの大きさ、細工の素晴らしさに驚いたことでしょう。

 なにしろ、北京の紫禁城の敷地面積が72万平方メートルなのに対して、ドルゴンや順治帝の住んでいた瀋陽の盛京宮闕は6万平方メートル、北京の紫禁城の部屋数が9000余間なのにたいして、瀋陽の盛京宮闕の部屋数は300余間でしたから。

 しかし、ドルゴンも順治帝も、驚いて腰を抜かしてしまったわけではありません。この驚きを力に変え、知恵に変えて清王朝の振興をはかったのです。漢族王朝の統治の経験と漢族文化の伝統の秀れた点を虚心に学び、それを自分の力、自分の知恵に変えていったのです。

 順治元年の5月2日に清の大軍を率いて北京に入城したドルゴンは、翌日つまり5月3日には、明朝に仕えた漢族の文官、武官をすべて明朝時代の待遇のままで留用する通告を出しています。

 続いて4月には、自害した明朝のラストエンペラー崇禎帝をいたみ、官民あげて3日間、喪に服することを決めました。この喪があけると、すぐに使者を孔子廟に送って孔子を祀り、翌年にはみずからも孔子廟に詣で、儒家に代表される漢族の政治と文化を重んじる姿勢を鮮明に打ち出しました。

 順治七年(1651年)のドルゴンの死によって、順治帝の親政が始まります。順治帝は、まわりの満州族保守派の反対を押し切って、漢族の優秀な人材を重用し、ドルゴンが進めた満州族貴族と漢族官僚との連合をさらに固めていきました。

 もちろん、漢族のものをすべてう呑みにしたわけではありません。例えば明王朝に大きな災いをもたらした宦官制度には強い警戒心を示し、政治に口をだした宦官を厳罰に処す、という告示板を宮中の各所に立てました。清代には国の政治に大きな影響をあたえた宦官がほとんど出なかったのも、清王朝の長期政権維持の一因にあげられています。順治帝はこの面でも功があったといえましょう。

 清代というと、とかく康熙、乾隆の清の黄金時代に目がいきがちですが、わずか百万の満州族をバックにして、一億数千万を超える人口の漢族の王朝であった明の本拠に乗り込み、慎重かつ果敢な行動で、清朝の土台を築いたドルゴンと順治帝は、高く評価されるべきでしょう。

順治帝とアダム・シャール
 

北京・宣武区にある天主教教会は、北京最古の天主教の教会で、礼拝堂はゴチック建築のアーチ式建造物。建築面積は約1300平方メートル、付属の建物の面積は約400平方メートル

 順治帝はたいへんな勉強家でした。北京という中国漢族文化の大殿堂に足を踏み入れた順治帝、すっかりその虜となります。そして「凡そ経学、道徳、経済、典故の諸書を研求淹貫し、古に博く今に通じるべきなり」と述べ、四書五経はじめ、中国の古典から野史、小説などに読みふけりました。

 順治帝の知識欲は、漢族の文人たちとの交流だけではなく、北京在住のドイツ人の宣教師で、天文学にも通じたアダム・シャール(1591〜1666年)を師と仰ぎ、西洋の科学・文化にも強い関心を示しました。順治帝は、明代にイタリア人の宣教師マテオ・リッチ(1552〜1610年)が住んでいた北京西南郊の宣武門に近い一角を、教会を建てる敷地としてシャールに下賜しています。シャールはここに北京最初の西洋建築である天主堂を建て、自分もここに住みました。

 順治帝は礼拝堂のほかに天文台や図書室もあったこの天主教会を何回も訪れ、シャールと膝を交えて西洋の文化や科学、さらには人生のことなどを親しく話しあっています。

 いまでも、地下鉄環状線の宣武門駅を降りて地上に出ると、この教会の礼拝堂の十字架を目にすることができ、毎朝と日曜日の午前にはここでミサがおこなわれ、賛美歌の調べを聞くことができます。

 順治帝は自分の勉強を踏まえて、「文教を興し、経術を崇び、太平を開く」(『清世祖実録』巻90)を国策として打ち出しています。こうして勉強好きとその国策は、息子の康煕帝(1654〜1722年)に受け継がれ、『康煕字典』といった名著を生んだといえましょう。清王朝を支えた歴代皇帝の勉強好きのルーツは、どうやら順治帝にあったに違いありません。

暦の作成と観象台

観象台の屋上には、八件の清代に造られた青銅の天文観測儀器が陳列されている。世界でもっとも古く、もっとも整った気象観測の記録もここに残されている

 地下鉄環状線の建国門駅を降りて約一分のところに観象台があります。これは古代の天文台です。

 この古代天文台は、元の時代の天文台だった「司天台」の跡に、明の正統7年(1442年)に建てられたもので、明代には「観星台」と呼ばれていました。農業国である中国では、農耕に欠かせない暦を定め、公布することが、皇帝の権威の象徴であり、歴代皇帝は暦造りの基礎となる天体観測に大きな力を注いできました。

 北京に入って政権の座に着いた清朝も、すぐに天文台の整備と暦の作成に取組みます。そして「観星台」を「観象台」と改名し、前述の順治帝と親しく、天文学にもくわしかったアダム・シャールを二品、つまり大臣待遇で欽天監監正(天文台台長)に任命します。

 シャールが西洋の新しい天文単位をとり入れて作った『時憲暦』は、かなり精確で、清王朝のもとでずっと使われました。またここでは、気象観測もおこなわれ、清の雍正2年(1724年)から光緒28年(1902年)までの180年間にわたって、毎日欠かさず記されたくわしい気象資料が残されています。

 この古代天文台の遺跡は、北京古代天文儀器陳列館として国の重要文化財に指定され、一般開放されています。観測場だった屋上には、明・清時代の青銅製の天体儀器が、当時のままの姿で並べられています。竜を図案にとり入れたものなど、どれも観測儀器というよりも芸術品といった方がいいかも知れません。ここからの見晴らしも快適です。

 古代天文台の1万平方メートルの敷地には、中国北方の伝統的な住宅形式である「四合院」の家屋と庭があり、その母屋である紫微殿は、中国古代の天文学の姿を伝える展示場となっています。槐の木など、みどりの美しい庭には幾つかペンチが置かれています。

 日本人がよく泊まるホテル「長冨宮」から歩いても5分。北京の街のど真中に身を置いているとはとても思えないほど静かなひとときを過すことができるでしょう。

 来月は、「清朝紫禁城秘話」というお話しです。康熙帝、乾隆帝、光緒帝、西太后……が登場します。(2003年8月号より

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。