北京の旅・暮らしを楽しくする史話


わたしの北京50万年(第23話)
東陵と西陵――清

                                文・李順然 写真・馮 進
 

清王朝は北京の東と西に陵を造った
東陵には五人の皇帝とその一族が眠り
西陵には四人の皇帝とその一族が眠る
東陵には風流皇帝といわれた乾隆帝や
ドラゴンレディーといわれた西太后の陵
西陵には数々の悲話を生んだ光緒帝の陵 
傍らには最愛の側室だった珍妃の墓
悲愛の二人はここに安息の地を得たのだ 

 

父に随うか 祖父に随うか

河北省遵化市の昌瑞山の麓にある清の東陵の参道入口に建つ牌楼門

 ユネスコの世界遺産に登録されている清の東陵と清の西陵。その名の示す通り、一つは北京の東側の河北省遵化県に、もう一つは北京の西側の河北省易県にあります。河北省といっても、いずれも北京との境にあり、北京から車で行けば日帰りできるコースです。

 東の清の東陵には順治帝(1638〜1661年)、康煕帝(1654〜1722年)、乾隆帝(1711〜1799年)、咸豊帝(1831〜1861年)、同治帝(1856〜1875年)の陵があります。

 西の清の西陵には雍正帝(1678〜1735年)、嘉慶帝(1760〜1820年)、道光帝(1782〜1850年)、光緒帝(1871〜1908年)の陵があります。

 初代皇帝のヌルハチ(1559〜1626年)と二代皇帝ホンタイジ(1592〜1643年)の陵は、その死が北京遷都以前だったので、当時の都が置かれていた中国・東北地方の瀋陽に設けられました。

 ところで、どうして北京に都を移してからの清朝の陵が、東と西に分けて造られるようになったのでしょうか。

 最初に造られたのは東陵の順治帝の陵です。陵の位置は、順治帝自身が猟にでかけたときに見つけて、自分の陵の造営地としました。次の康煕帝も「子は父に随う」というしきたりにのっとり、東陵に自分の陵を造っています。

 ところが、それに続く雍正帝は、東陵一帯にはもう吉兆の地は見つからないなどを理由に、西の易県を自分の陵を造る地に選びました。吉兆の地がなかったのではなく、父である康煕帝の近くに葬られるのを恐れたからだ、という説もあります。雍正帝は「兄弟仲よく」という父の遺訓に背いて、兄弟や、父の信任の厚かった大臣たちを殺しているのです。こうして清朝の北京での陵は、東と西に別れてしまいました。

 次に乾隆帝は、東にするか西にするか、迷いに迷いました。もし「子は父に随う」というしきたりを守るならば、西、つまり易県の西陵ということになるのですが、それでは東陵が絶えてしまいます。そこで考えに考え、「兆葬制度」という方法を打ちだしました。

 この制度は「孫は祖父に随う」というものです。こうすれば、東に一つ、西に一つということになっていき、東陵も西陵も絶えることはないと考えたのです。そして自分の陵は東に設けました。これは、続く嘉慶帝に受け継がれ、嘉慶帝の陵は西陵に設けられます。祖父である雍正帝に従ったのです。

清の西陵にある雍正帝を葬った泰陵がある。泰陵には、隆恩殿が建てられている

 その後の道光帝も「兆葬制度」にもとづいて東陵に陵を造営したのですが、着工7年目に地下水が噴きだして、柩を入れる玄室などが水びたしになってしまいました。道光帝は縁起が悪いとしてここを放棄し、陵の造営地を西陵へ移します。このため西、西と続いてしまったのです。

 続く咸豊帝は、さらに西が続くのを避けて東陵に自分の陵を造営しました。しかし、そのあとの同治帝の陵は、母親である西太后の干渉で東陵に造られました。また、東、東と続いてしまったのです。西太后は一人息子の同治帝の陵を、自分の陵がある東陵に置きたかったのでしょう。

 乾隆帝が苦心して考えだした「兆葬制度」ですが、その実行はなかなか難しかったようです。まあ、結果的には東陵に五皇帝、西陵に四皇帝とバランスはとれたのですが……。

天然痘が生んだ康煕帝

 清の東陵の中で最初の陵である順治帝の孝陵は、順治帝の没後に造営が始まりました。というのは、順治帝は24歳という若さで天然痘に罹り急死したので、陵の造営はまだ手掛けていなかったからです。順治18年(1661年)1月7日のことでした。

 順治帝の孝陵ができあがったのは、年号が改まって康煕3年(1664年)の夏で、順治帝と2人の皇后の骨壷が葬られました。3人は、満州族のしきたりで火葬されたのです。次の康煕帝からは漢族の風習にならい、土葬になっています。

 「陵は飾りたてず、金玉宝器を蔵せず」という順治帝の遺訓にしたがい、孝陵に入れられた副葬品は扇子と靴だけだったという伝説があります。この伝説が幸いしてか、東陵のなかでも規模がいちばん大きいにもかかわらず、孝陵は墓泥棒に荒らされなかった唯一の陵となっています。

 ところで、臨終にあたって順治帝は、3男で8歳の玄Yを皇位継承者に指名しました。後の康煕帝です。

 なぜ長男、次男を追い越して3男が指名されたのでしょうか。3男の玄Yは天然痘に罹ったことがあり、免疫があるので順治帝の二の舞を踏むことはないだろうというのが指名の理由でした。康煕帝はまさに天然痘が生んだ皇帝だったのです。

 たしかに康煕帝は、順治帝の二の舞を踏むことなく長寿でした。康煕61年(1722年)に69歳で亡くなっています。61年という在位年数は清朝でも、いや564人いたといわれる中国歴代皇帝のなかでも最長です。

 康煕帝を葬った景陵は、順治帝の孝陵の東隣りにあります。陵の規模、格式は先祖のものを超えてはならないという不文律にしたがって、景陵は孝陵よりいくらか小さくなっています。

定東陵の参道に置かれた獅子と象の石像

 しかし、康煕帝の功績を頌える碑が二つ建てられました。これは不文律を破るものです。雍正帝は「在位61年の康煕帝の功績は大きく、一つの碑では記しきれない」として、漢語と満州語の碑を一つずつ造らせたのです。

 だが、碑の高さについては順治帝のものを超えてはならないと条件を付けています。いくらか順治帝に遠慮したのでしょう。いったん破られた不文律は、元には戻りません。その後の皇帝陵には、みな二つの碑が建てられています。

東陵の大盗難事件

 1928年7月、清の東陵で大盗難事件が起きました。主犯は、この一帯に駐屯していた地方軍閥「国民革命軍」第12軍の軍長、孫殿英です。「軍事演習」という名目で東陵全域を立入り禁止区域とし、工兵大隊が出動して陵の石門を爆破し、盗みだした財宝を馬車数十台で運び去る……などなど、第12軍総動員の白日の下での強奪でした。

 孫殿英が「攻撃対象」としたのは、乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵です。この二人は、清王朝でも文物財宝をいちばん愛した皇帝と皇太后でした。そこで孫殿英は、この二人の陵にはきっと副葬品も多いだろうと目を付けたのです。たしかにこの二人の陵には、金目のあるものが沢山あったようです。

 西太后の陵を見てみましょう。西太后の筆頭宦官だった李連英の記録によりますと、西太后の棺に入れられた財宝にはこんなものがありました。

 大粒の真珠12604粒
 宝石87個
 玉203個を金の糸で縫い付けた敷布団
 真珠3720粒を縫い込んだ掛布団
 それぞれの色の翡翠で造った蓮の花と葉
 それぞれの色の翡翠で造った西瓜2個、桃10個

 それぞれの色の宝石で造ったスモモ100個、アンズ60個、ナツメ40個、金、銀などで造った仏像108尊……

 そして、その隙き間のパッキングとして珠玉や宝石が詰められていたそうです。

 清の東陵の一大盗難事件のニュースを聞いて、いちばん怒り、悲しんだのは、すでに退位し、紫禁城を追いだされて天津に住んでいた清のラストエンペラー、溥儀(1906〜1967年)でした。溥儀はその自伝『わが半生』(筑摩書房)で、この事件についてこう書いています。

 「盗難の知らせを聞いたときに私が受けたショックは、紫禁城を追いだされたときよりも深刻だった。この恨みを晴らせないならば、わたしは愛新覚羅(アイシンギョロ)の子孫ではないと思った」

 「愛新覚羅」は清王室の姓です。溥儀は、天津の住まいに、乾隆帝と西太后の霊堂を設け、毎日3回、その位牌の前にひれ伏し、先祖の墓を荒らされた自分のふがいなさを謝り、復讐を誓ったそうです。

西太后が葬られた定東陵には、「鳳凰が竜を引く」という図案の「丹陛」({きざはし}階)がある

 荒らされたとはいえ、乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は清の東陵のなかでも見る価値のあるものがいちばん多い陵だといえましょう。風流皇帝といわれる乾隆帝がみずから何回も足を運んで造らせた裕陵の建築物や彫刻の美しさは、清朝の陵の中では最高だといわれています。

 西太后の定東陵では、あちこちで「鳳凰が竜を引く」という図案の彫刻を目にします。鳳凰を西太后にたとえると、竜は西太后の「垂簾の政」の対象だった同治帝、光緒帝の2人の幼帝に当たります。この図案は、西太后と2人の幼帝との関係を示すものだといわれるのです。

 ちなみにこの大盗難事件の主犯である孫殿英は、二十年後の一九四七年に河南省の湯陰戦役で人民解放軍の捕虜となり、アヘン中毒で獄死しています。

雪を売って松を植える

 さて、清の西陵の敷地のあちこちに、20万株を超える松が枝を広げています。このうち樹齢500年を超える古松は2万株あるそうです。

 清の西陵の中でいちばん最後に造られたのは、光緒帝の崇陵です。崇陵は宣統元年(1909年)から造営工事を始めましたが、2年後の1911年に辛亥革命が起きました。翌年の2月には宣統帝が退位して清朝の支配は終わり、崇陵の工事も停止を余儀なくされます。

 その翌年、つまり1913年になって、中華民国臨時大総統の座に収まっていた袁世凱が、「清皇帝優遇条件」に基づいて、光緒帝の陵の造営費を民国政府が負担することを決め、工事が再開されました。そして1915年にできあがっています。

 清の西陵の東の端にある崇陵は、なにしろ他人の懐まかせの造営だったので、かなり雑なところもあったようです。陵のまわりの緑が少ないのに心を痛めた老臣の梁鼎芳は、陵の上を覆う雪を「崇陵雪水」と書いた瓶に入れて、かつての臣下に配り、崇陵のまわりに松を植える資金を募りました。そしてその金で崇陵に松を植えたそうです。光緒帝の先生をしていた梁鼎芳自身も、老齢をおして崇陵に出かけ、鍬をとって松を植えたと伝えられています。

 この崇陵の東隣りには、光緒帝最愛の側室だった珍妃とその姉の瑾妃を葬る崇妃墓地があります。

 珍妃は「戊戌政変」と呼ばれる改革を実行しようとした光緒帝を支持したがために、西太后の怒りに触れて紫禁城の乾隆花園の片隅みの井戸に投じられて死にました。光緒26年(1900年)のことです。光緒帝自身も紫禁城に近い南海の瀛台に幽閉されていたのです。しかし、光緒帝と珍妃の心はずっと通い合っていました。

河北省易県の永寧山にある清の西陵には、光緒帝を葬った崇陵がある。崇陵の地下宮殿の入口にある彫刻を施した大きな門

 珍妃の死後、西太后は珍妃の亡霊につきまとわれます。西太后は、珍妃が死んだ年に、八カ国連合軍の北京侵入を避けて西安に逃がれました。翌年、北京に戻りますが、帰るとすぐに珍妃を貴妃に昇格し、その遺骸を井戸から引きあげ、西直門に近い墓地に埋葬しています。そして西陵に崇妃墓地ができあがると、遺骸もそこに移されました。光緒帝と珍妃は、やっと2人の安息の地を得たわけです。

 数年前の晩秋、清の西陵を訪れたとき、珍妃の墓の前に、誰が供えたのか、黄色い野菊の手造りの花輪が置かれているのを目にしました。

 いよいよ次回は最終話です。割愛、割愛、割愛で、あの話、この話と滞貨の山ができてしまって、どこから話そうか迷っています。うまい「落ち」が見つかるといいのですが……2003年11月号より 

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。