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知られざる敦煌・楡林窟
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多彩なる仏教と民族文化の世界
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樊錦詩
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楡林河のほとりに位置する楡林窟は、またの名を万仏峡と言う。唐代から元代に至る四十二の洞窟が残っており、敦煌石窟の中でも莫高窟に次ぐ規模を誇る。一九六一年には莫高窟などとともに最初の全国重点文化財保護単位に指定された。 楡林窟で最も古い洞窟は、第十七窟と第二十八窟だ。いずれも、北魏から唐の時代にかけて流行した塔柱式洞窟(洞窟内の空間の中央に塔のような柱が立つ様式)である。その建築様式と壁画は、唐代初期の特徴がとくに色濃い。第二十八窟の塔柱には仏像や宝物を入れるためのむろが穿たれており、軽やかに舞う飛天、慈愛に満ちた菩薩、その頭上の光背など、唐代の壁画が残っている。当時の素朴にして優美な芸術を今に伝える壁画と言えるだろう。
唐の大暦十一年(七七六)、瓜州(現在の安西県)は吐蕃人(現在のチベット系民族)に占領されたが、彼らは熱心に仏教を信仰していたため、石窟築造のテンポは一段と速められた。吐蕃の時代に造られた石窟は壁画の精緻さと美しさが特徴的で、盛唐の芸術と比べても遜色がない。この時代の代表的な石窟と言えるのが第二十五窟だ。この石窟は顕教と密教が融合した大乗浄土窟だが、正面の壁に密教の八大菩薩画が描かれていることから、密教の影響力がより大きかったことが分かる。 壁画の主な内容と配置は、盛唐の石窟芸術の流れをくんでいる。南の壁に描かれた「観無量寿経変」(変とは仏教説話などを絵図にしたもの)は、その中央に西方浄土図が配され、華麗な宮殿楼閣が立ち並ぶ仏の国の様子を伝えている。楽隊や踊り子の姿も描かれ、その豊かな表情や躍動感があますことなく描き出されている。「観無量寿経変」の両側に展開されているのは、十六観(無量寿仏や極楽浄土などに対する十六の観想)と「未生怨」(観無量寿経変の序文にある物語)の故事である。 第二十五窟の壁画を手がけた画工たちは実に多彩な筆遣いで人物を描いており、その芸術手法は極めて熟練されたものといえる。衣服や帯、建築物、樹木や水の流れなど、様々な物質の質感をタッチの濃淡で表現した技巧は見事だ。とりわけ、「蘭葉描」と呼ばれる柔らかく伸び伸びとした画法は、人物の動きや衣服の揺らめきまでも描き出し、画面全体に躍動感を与えている。色彩的には淡い色を基調にしており、これは主に線描の効果を強調するためと考えられている。ここでは盛唐の芸術に特徴的な賑やかな雰囲気は影をひそめているが、その分、雅やかで落ち着いた味わいがある。
また、この窟には当時の人々の暮らしの一端が垣間見えるような興味深い壁画もある。「えき棋図」(碁の対局図)は一心不乱に碁盤に向かう二人の対局者と、その脇に立つ維摩詰を描いている。これは「方便品」の中の一場面で、維摩詰が酒場に入り、賭場で衆生を勧戒しているところである。この壁画は囲碁の歴史を知る上でも、重要なものといえる。「弟子品」の「さいだい図」では、阿難(釈迦の十大弟子の一人)が乳を乞う場面が描かれ、牧女が牛の乳を搾る姿に民の暮らしぶりがよく現れている。 十一世紀になると、敦煌一帯は西夏国の支配下に入る。西夏はタングート(党項)、回鶻人、漢人などが構成する勢力で、一〇三〇年に瓜州を、一〇七四年には沙州を占領した。曹氏の治世の末期から西夏の初期にかけ、両州一帯では回鶻が勢力を伸ばし、石窟芸術にも大きな影響を及ぼした。回鶻の統治のあり方については資料が少なく詳細は不明だが、その芸術文化の特徴は敦煌石窟の多くに刻みつけられている。その典型とも言えるのが楡林窟第三十九窟だ。この石窟は唐の時代に造られたものだが、現在残っている壁画は回鶻人がもとの壁画の上に描き直したものだ。前室に通じる通路の左右の壁には、回鶻人の供養人像がある。主な壁画としては薬師仏、説法図、千手千眼観音、羅漢および儒童本生図などがあり、ふくよかな顔と淡い色づかいが印象的だ。とりわけ、薬師仏や儒童本生図には、高昌国(現在のトルファン郊外に都を置いたウイグル国家)の壁画と共通する特徴がはっきり見てとれる。 第二窟入り口の両側には、それぞれ「水月観音図」が描かれている。岩の上に座る観音菩薩の後ろに青々とした竹が伸び、その足元には水がゆらめいている。満開の蓮の花、雲間に光る新月、俗世の汚れや騒がしさを超越した境地がここに体現されている。画面に余白が多く、事物を対角に配置する構図は、南宋の馬遠や夏圭らの画風に通じるものがある。 第三窟は顕教、密教の影響が入り混じった石窟と言える。この窟の千手千眼観音は実にユニークで、手の仕草や握られた楽器、生産道具などから、古代の人々の暮らしをうかがい知ることができる。入り口の両側に描かれた文殊変と普賢変は、いずれも水墨画を背景とする当時の斬新な画風で描かれており、その画面の雄大さ、個性的な表現法が目を引く。
西夏の絵画の大きな特徴として、その装飾図案が非常に凝っていることが挙げられる。第十窟の天井の図案はその代表的なものの一つだ。主室の天井は{ます}枡を伏せたような「覆斗缶頂」になっており、その中央に九(く)品(ほん)往(おう)生(じょう)(極楽往生する者の九等の段階があること。上品・中品・下品の三品に、それぞれ上生・中生・下生の三等がある)を象徴する九体の仏が描かれている。これは九品曼陀羅を簡略化したもので、中央に上品上生の阿弥陀仏を配し、その周囲を八体の仏が蓮の花弁のように取り囲んでいる。天井の飾りには回紋、連珠紋、巻草鳥獣紋、連続亀甲紋などの図案が描かれ、その種類の豊富さと美しさは圧巻だ。「天」や「王」などの文字を崩して作った図案などもあり画工たちの豊かな創意が感じられるほか、描かれた象や獅子、飛馬、鳳凰なども実に生き生きとしている。こうした鳥獣を組み合わせた図案は、第三窟にも多く見られる。第三窟の天井の四隅には悠然と楽器を奏でる飛天伎楽が描かれているが、この絵は描線の処理、色づかいなど、特に優れたものとして評価が高い。 元代の石窟を代表するものとして挙げられるのが第四窟だ。天井は第十窟と同じ覆斗頂で、窟の中央に戒壇が設けられている。正面の壁には説法図に挟まれる形で曼陀羅が配置され、南側の壁に白度母と観音曼陀羅、北壁に霊(りょう)鷲(じゅ)山(せん)説法図、曼陀羅、緑度母、西壁の門の南北にはそれぞれ普賢変と文殊変が描かれている。その内容は完全にチベット密教のもので、画法も中原地方のそれとは異なる。色づかいに重きが置かれ、色彩の強烈なコントラストによって神秘的な雰囲気を醸し出している。人物描写もバランスに乱れがなく、躍動感に満ち、線描も細やかで無駄がない。 元の時代には、第四窟のほかにもいくつかの石窟の修復が行われ、供養人像や密教画が描かれている。それらの供養人像は、元代の服飾の文化や制度を知る上で貴重な資料となっている。 莫高窟、楡林窟、東千仏洞、西千仏洞など、敦煌石窟を構成する石窟群は共通する芸術的風格を持ち、互いに補完しあう関係にある。莫高窟の芸術性が五代以降、次第に衰えていったのに対し、楡林窟では西夏、元の時代になって新たな画風が出現し、芸術性の飛躍があった。その点に、この石窟の歴史的、芸術的な価値があると言えるだろう。(2001年1月号より) |