知られざる敦煌・楡林窟

多彩なる仏教と民族文化の世界

                                   樊錦詩

樊錦詩 62歳。敦煌研究院院長。敦煌学の権威であり、同研究院で若手研究者の指導にも当たっている。

 楡林河のほとりに位置する楡林窟は、またの名を万仏峡と言う。唐代から元代に至る四十二の洞窟が残っており、敦煌石窟の中でも莫高窟に次ぐ規模を誇る。一九六一年には莫高窟などとともに最初の全国重点文化財保護単位に指定された。

 楡林窟で最も古い洞窟は、第十七窟と第二十八窟だ。いずれも、北魏から唐の時代にかけて流行した塔柱式洞窟(洞窟内の空間の中央に塔のような柱が立つ様式)である。その建築様式と壁画は、唐代初期の特徴がとくに色濃い。第二十八窟の塔柱には仏像や宝物を入れるためのむろが穿たれており、軽やかに舞う飛天、慈愛に満ちた菩薩、その頭上の光背など、唐代の壁画が残っている。当時の素朴にして優美な芸術を今に伝える壁画と言えるだろう。

 第六窟も唐代に造られたもので、窟内の大仏は高さ約二十三bもある。代々、修復が重ねられてきたため本来の姿を見いだすのは難しいが、その大きさと迫力から、唐という時代特有のダイナミズムを感じることができる。

 唐の大暦十一年(七七六)、瓜州(現在の安西県)は吐蕃人(現在のチベット系民族)に占領されたが、彼らは熱心に仏教を信仰していたため、石窟築造のテンポは一段と速められた。吐蕃の時代に造られた石窟は壁画の精緻さと美しさが特徴的で、盛唐の芸術と比べても遜色がない。この時代の代表的な石窟と言えるのが第二十五窟だ。この石窟は顕教と密教が融合した大乗浄土窟だが、正面の壁に密教の八大菩薩画が描かれていることから、密教の影響力がより大きかったことが分かる。

 壁画の主な内容と配置は、盛唐の石窟芸術の流れをくんでいる。南の壁に描かれた「観無量寿経変」(変とは仏教説話などを絵図にしたもの)は、その中央に西方浄土図が配され、華麗な宮殿楼閣が立ち並ぶ仏の国の様子を伝えている。楽隊や踊り子の姿も描かれ、その豊かな表情や躍動感があますことなく描き出されている。「観無量寿経変」の両側に展開されているのは、十六観(無量寿仏や極楽浄土などに対する十六の観想)と「未生怨」(観無量寿経変の序文にある物語)の故事である。

 一方、北側の壁には仏教故事「弥勒経変」が描かれ、中央に弥勒の説法図、その両側に弥勒浄土の美しい情景が広がっている。「弥勒経変」の中にある「耕穫図」は、農民が畑を耕し、刈り入れ、脱穀し、もみ殻を飛ばす姿など、唐代の農業生産のプロセスを正確に映し出している。また「嫁娶図」では、青廬という天幕の下で結婚式が行われている様子を見ることができる。吐蕃の衣装を着た花婿と漢族の衣装を身につけた花嫁が、大勢の客人の前で誓いの儀式を行っている。客人たちは男と女、吐蕃人と漢人の別なく宴を楽しんでおり、当時の吐蕃人と漢人が睦まじく暮らしていたことを伝えている。

 第二十五窟の壁画を手がけた画工たちは実に多彩な筆遣いで人物を描いており、その芸術手法は極めて熟練されたものといえる。衣服や帯、建築物、樹木や水の流れなど、様々な物質の質感をタッチの濃淡で表現した技巧は見事だ。とりわけ、「蘭葉描」と呼ばれる柔らかく伸び伸びとした画法は、人物の動きや衣服の揺らめきまでも描き出し、画面全体に躍動感を与えている。色彩的には淡い色を基調にしており、これは主に線描の効果を強調するためと考えられている。ここでは盛唐の芸術に特徴的な賑やかな雰囲気は影をひそめているが、その分、雅やかで落ち着いた味わいがある。

 楡林窟には、五代の時代(九〇七〜九六〇)に造られた窟も多い。第三十二、三十三、三十五窟などはその代表で、その風格は同時期に作られた莫高窟の石窟に通じる。ここでは梵網経変や地獄変など、それ以前の石窟には見られない仏教故事が現れる。それらの経変の中には、まったく新しい表現様式を採り入れているものがある。例えば、第三十二窟の維摩変は、左側に維摩詰(古代インドの在家の居士ビマラキールティ)、右側に文殊、中央には須弥山とその頂上に架かる天梯が描かれ、その周囲に「香積品」「方便品」(いずれも維摩経三巻の中の篇名)などの内容が描き添えられている。このように須弥山を画面の中央に配する構図は、ほかの時代の維摩変には見られないものだ。

 また、この窟には当時の人々の暮らしの一端が垣間見えるような興味深い壁画もある。「えき棋図」(碁の対局図)は一心不乱に碁盤に向かう二人の対局者と、その脇に立つ維摩詰を描いている。これは「方便品」の中の一場面で、維摩詰が酒場に入り、賭場で衆生を勧戒しているところである。この壁画は囲碁の歴史を知る上でも、重要なものといえる。「弟子品」の「さいだい図」では、阿難(釈迦の十大弟子の一人)が乳を乞う場面が描かれ、牧女が牛の乳を搾る姿に民の暮らしぶりがよく現れている。

 五代、北宋の時代の壁画には、供養人像(仏界に属さない人物の絵)が多く残っている。第十六窟に通じる通路には南の壁に曹議金の供養人像、北の壁にはその夫人である李氏の供養人像がある。また第三十三窟の通路には曹元忠父子と夫人のたく氏の供養人像が描かれている。曹議金は五代の時代、敦煌一帯を統治していた帰義軍節度使である。当時中原地方は戦乱がうち続き、河西回廊一帯のほとんどが少数民族の支配下にあった。曹議金とその後継者たちは一連の政治的、外交的手段を講じて東の甘州回鶻(ウイグル)や西の于(う)てん国と婚戚関係を結んでその支配を維持し、瓜州、沙州(現在の敦煌)に一世紀前後の平和をもたらした。この時代の歴史については正史の記載が乏しいため、長い間、莫高窟の供養人像に添えられた題銘(絵の説明や人物の事跡などを記した文章)が最も重要な史料とされていた。しかし、楡林窟の供養人像の題銘は莫高窟よりも欠損が少なく、字跡も明瞭なため、その史料的価値はさらに高い。第三十二、三十三、三十五窟などにも画工たちの残した題銘が残っており、壁画の制作状況を研究する上で貴重な資料となっている。

 十一世紀になると、敦煌一帯は西夏国の支配下に入る。西夏はタングート(党項)、回鶻人、漢人などが構成する勢力で、一〇三〇年に瓜州を、一〇七四年には沙州を占領した。曹氏の治世の末期から西夏の初期にかけ、両州一帯では回鶻が勢力を伸ばし、石窟芸術にも大きな影響を及ぼした。回鶻の統治のあり方については資料が少なく詳細は不明だが、その芸術文化の特徴は敦煌石窟の多くに刻みつけられている。その典型とも言えるのが楡林窟第三十九窟だ。この石窟は唐の時代に造られたものだが、現在残っている壁画は回鶻人がもとの壁画の上に描き直したものだ。前室に通じる通路の左右の壁には、回鶻人の供養人像がある。主な壁画としては薬師仏、説法図、千手千眼観音、羅漢および儒童本生図などがあり、ふくよかな顔と淡い色づかいが印象的だ。とりわけ、薬師仏や儒童本生図には、高昌国(現在のトルファン郊外に都を置いたウイグル国家)の壁画と共通する特徴がはっきり見てとれる。

 西夏国は建国以来、たびたび北宋に人を派遣して仏教経典を収集したほか、西域からチベット仏教の高僧を招いてもいる。そうした政策のもと、河西回廊一帯では仏教が大いに盛んになり、張掖に大仏寺が建立されたほか、武威、酒泉などにも石窟が造られた。莫高窟、楡林窟、西千仏洞、甘粛北部の五つの廟には、いずれも西夏が築造、修築した石窟があり、その中でも楡林窟は当時「世界の聖宮」と称えられるほどの重要な石窟だった。楡林窟の中で西夏が開いた石窟は、この国の石窟芸術の水準を最もよく体現している。その代表とも言えるのが第二、三、二十九窟だ。

 第二窟入り口の両側には、それぞれ「水月観音図」が描かれている。岩の上に座る観音菩薩の後ろに青々とした竹が伸び、その足元には水がゆらめいている。満開の蓮の花、雲間に光る新月、俗世の汚れや騒がしさを超越した境地がここに体現されている。画面に余白が多く、事物を対角に配置する構図は、南宋の馬遠や夏圭らの画風に通じるものがある。

 第三窟は顕教、密教の影響が入り混じった石窟と言える。この窟の千手千眼観音は実にユニークで、手の仕草や握られた楽器、生産道具などから、古代の人々の暮らしをうかがい知ることができる。入り口の両側に描かれた文殊変と普賢変は、いずれも水墨画を背景とする当時の斬新な画風で描かれており、その画面の雄大さ、個性的な表現法が目を引く。

 第二十九窟には西夏の貴族たちの供養人像が多く残っており、それぞれに西夏文字による題銘が添えられている。西夏の芸術研究において重要な意味を持つ石窟と言えるだろう。南側の壁には花を手にして高座に座る高僧が描かれ、その背後には多くの武官たちが列をなしている。この壁画には漢語で「真義国師西壁智海」を意味する西夏文字の題銘があるが、国師とは西夏国王から僧侶に授けられる最高の職階である。また、この窟には列をなす女性の供養人像もあり、その衣服はタングートの服飾文化の特徴をよく物語っている。

 西夏の絵画の大きな特徴として、その装飾図案が非常に凝っていることが挙げられる。第十窟の天井の図案はその代表的なものの一つだ。主室の天井は{ます}枡を伏せたような「覆斗缶頂」になっており、その中央に九(く)品(ほん)往(おう)生(じょう)(極楽往生する者の九等の段階があること。上品・中品・下品の三品に、それぞれ上生・中生・下生の三等がある)を象徴する九体の仏が描かれている。これは九品曼陀羅を簡略化したもので、中央に上品上生の阿弥陀仏を配し、その周囲を八体の仏が蓮の花弁のように取り囲んでいる。天井の飾りには回紋、連珠紋、巻草鳥獣紋、連続亀甲紋などの図案が描かれ、その種類の豊富さと美しさは圧巻だ。「天」や「王」などの文字を崩して作った図案などもあり画工たちの豊かな創意が感じられるほか、描かれた象や獅子、飛馬、鳳凰なども実に生き生きとしている。こうした鳥獣を組み合わせた図案は、第三窟にも多く見られる。第三窟の天井の四隅には悠然と楽器を奏でる飛天伎楽が描かれているが、この絵は描線の処理、色づかいなど、特に優れたものとして評価が高い。

 西夏に変わって瓜州、沙州を統治したのは元だった。この地の支配権をめぐってしばらく動乱がうち続いたが、仏教を信仰するという点では元もそれまでの支配者たちと同じだった。至正四年(一三四四)、瓜沙二州に進駐した西寧王逓来蛮は、至正八年に莫高窟で大字真言碑を建立したほか、皇慶寺(現在の莫高窟第六十一窟)を改築。さらに至正十三年には楡林窟の修復を命じた。元代の仏教はチベット仏教の強い影響を受けていたことに特徴があり、この時代の石窟芸術にもチベット密教の色彩が濃厚に漂っている。

 元代の石窟を代表するものとして挙げられるのが第四窟だ。天井は第十窟と同じ覆斗頂で、窟の中央に戒壇が設けられている。正面の壁には説法図に挟まれる形で曼陀羅が配置され、南側の壁に白度母と観音曼陀羅、北壁に霊(りょう)鷲(じゅ)山(せん)説法図、曼陀羅、緑度母、西壁の門の南北にはそれぞれ普賢変と文殊変が描かれている。その内容は完全にチベット密教のもので、画法も中原地方のそれとは異なる。色づかいに重きが置かれ、色彩の強烈なコントラストによって神秘的な雰囲気を醸し出している。人物描写もバランスに乱れがなく、躍動感に満ち、線描も細やかで無駄がない。

 元の時代には、第四窟のほかにもいくつかの石窟の修復が行われ、供養人像や密教画が描かれている。それらの供養人像は、元代の服飾の文化や制度を知る上で貴重な資料となっている。

 莫高窟、楡林窟、東千仏洞、西千仏洞など、敦煌石窟を構成する石窟群は共通する芸術的風格を持ち、互いに補完しあう関係にある。莫高窟の芸術性が五代以降、次第に衰えていったのに対し、楡林窟では西夏、元の時代になって新たな画風が出現し、芸術性の飛躍があった。その点に、この石窟の歴史的、芸術的な価値があると言えるだろう。(2001年1月号より)