知られざる敦煌・楡林窟

壁面が伝える民の暮らし

                                   譚蝉雪

譚蝉雪 中国敦煌研究院研究員。

 



 楡林窟が造られたのは、沙州(現在の敦煌)の都から遠く離れた峡谷の中だ。地理的に西域の世界と接する楡林窟は、漢民族以外の民族文化の影響を多分に受けており、壁画にも当時の民の興味深い暮らしぶりが映し出されている。

民の暮らし

 楡林窟第三窟に残る五十一面千手観音の変相図は、西夏(1039〜1227年)の社会生活の縮図というにふさわしい壁画だ。そこでは上から順に、次のような場面が描かれている。

 一、米搗き。ここに描かれた石製の踏み臼は、中原地方でよく使われていたものだ。てこの原理を用いており、手すりをつかんだ農民が杵につながった板を踏んでいる。石臼の周りには、箕や積み上げられた玄米も見える。

 二、鍛冶。カナトコの上で鉄を打っている二人の男の傍らで、別の男が「風箱」というふいごを操っている(4月号43ページ右下の写真参照)。風箱には二枚の大きな板が取り付けられており、扇の役割を果たしている。板につながった棒を両手で押したり引いたりすることで、安定した風を送り続けることができた。

 三、酒づくり。酒を蒸留する部屋で女性が炉の番をしている。炉の上に重なるように置かれている方形の器は酒の蒸留器だ。家庭で造る醸造酒よりもずっとアルコール度の高い「焼酒」がこの時代に造られていたことが分かる。

 四、田おこし。二頭の牛が犂を引いている。

 五、行商。行商人が、天秤棒を担いで荷物を運んでいる。  このほかにも、雑技を演じる芸人や様々な楽器を描いた壁画などがある。

 農作業の様子は中唐に造られた第25窟、五代(907〜960年)の第20窟の弥勒経変相図にも描かれている。いずれも田おこし・種まき、収穫、脱穀の三場面で構成され、女性が農作業に加わっていたことが分かるほか、木製のシャベルや熊手、草の茎で作ったほうきなど、この地方色豊かな農具も描き込まれている。

婚礼の宴

 「弥勒世界では人の寿命は八万四千歳で、女性は五百歳で嫁ぐ」と「弥勒下生経」は説く。第38窟と第25窟に描かれた弥勒経変相図の婚嫁図はこの内容を題材にしたもので、唐と宋の時代、瓜州(現在の安西県)や沙州で行われていたと思われる二つの異なる婚礼の様子を今に伝えている。ひとつは漢族の伝統を受け継いだもので、新郎が新婦を迎えに行き、新郎の実家で婚礼を行うもの。もう一つは西域の民族に見られた婿入り婚で、婚礼も新婦の実家で執り行われている。

 五代に造られた第三十八窟には、漢族の男性と回コツ(ウイグル)の女性の婚礼が描かれている。新婦は桃の形をした冠に歩くと揺れる髪飾りをつけ、胸元にも美しい首飾りをしていることから高貴な身分の人であることが分かる。布地で頭を覆った新郎は赤い丸襟の官服を身にまとい、笏(大臣が朝見する際に手にした細長い板)を手にしている。付き添いの男女にともなわれた新郎新婦は、絨毯の敷かれた帳の中で両親や天地への礼を行っている。

 向かいの天幕の下には宴席が設けられ、家族や友人らが集まっている。一組の男女が舞いを披露し、宴に興を添えている。その傍らでは侍者が皿をささげ持ち、二羽のガンが首をもたげている。これは当時の婚礼で行われた「奠雁の儀」と呼ばれる儀式を描いたものだ。興味深いのは、雁の後ろに置かれた鏡だ。南宋の孟ヤェタマが著した『東京夢華録・民俗』によると、結婚式の時、かごから降りた花嫁の姿を鏡に映しながら、その前を歩く役割の人物がいたという。これは鏡には邪気や妖気を鎮める力が宿ると信じられていたからだ。

 天地へ祈りを捧げた後、新婦は漢族の衣装に着替え、新郎に導かれて「青廬」に入る。青廬は西域の異民族が用いた半円形のテントで、三国時代(220〜280年)には婚礼にこれを用いる風習が定着していたらしい。青廬は百枝帳とも呼ばれ、その音が「百子帳」に通じることから、子宝に恵まれる縁起のよいものと思われていた。青廬に入った新郎新婦は「同牢合きんという儀式を行う。これは夫婦が一緒に同じ皿の肉と米を食べ、同じ盃の酒を飲む儀礼で、正式に二人の共同生活が始まったことが示される。

 第25窟の「婚嫁図」は吐蕃のもので、こちらは婿入り婚の儀式の様子が描かれている。画面右側は、新郎新婦が新婦の父と母に礼を行っている場面。新郎と新婦が頭に赤いフェルトの織物を巻いているのは、二人が吐蕃の貴族であることを示している。新婦は折襟の長衣を着て軽く拱手の礼をしているのに対し、新郎は新婦の父母の前で地面に伏し、最大級の礼を尽くしている。婿入り婚なので、新郎は新婦の父と母に深い敬意を示さなければならないが、新婦は自分の父母が相手なので比較的簡単な礼で済むというわけだ。

 画面左側に描かれているのは宴席の様子だ。赤い官服を着た男性の絽の帽子、女性の髪型やフェルトの帽子、侍女の着ている「プル」と呼ばれる毛織の礼服など、吐蕃族の文化、服飾、日用食器などを知る上で貴重な史料となっている。

輪廻の思想

 仏教の伝来は中国の伝統的な死生観や葬儀の習俗などに少なからぬ影響を与え、民間には輪廻や因果応報という考え方が広がっていった。

 輪廻の考え方では、現世の前に前世があり、現世の苦しみや喜びはすべて前世の行いに起因している。後世の苦楽も現世の善行と悪行によって生じる。永遠に繰り返されるこうした循環は、六道輪廻という形で進むとされる。すなわち、善を積んだものは死後、天道、人道、阿修羅道の三善道に入り、悪行を重ねたものは畜生道、餓鬼道、地獄道の三悪道に入るという。

 第15窟は晩唐期に造営された石窟で、その前室に通じる甬道の南の壁には地蔵菩薩が描かれている。左右それぞれ三本ずつ放たれた後光の先に描かれているのが六道の世界である。また、五代に造営された第十九窟の甬道には、六道輪廻の思想を具体的に絵解きした「五趣生死輪」も描かれている。

 仏教思想では、善行を勧め悪を罰するために、仏国浄土と幽冥地獄という思想も生まれた。死後、善人は西方浄土に往生し、仏国で永遠の命を得る一方、悪人は地獄に落ち、苦しみに耐えなければならないと考えられるようになったのだ。

 第33窟は第19窟と同じ五代に造られた石窟だ。東壁の入り口には地獄変が展開されており、仏国浄土に往生を遂げた者と地獄に落ちた者の描写が実に対照的だ。地獄に落ちた悪人は閻魔王と五道転輪王によって一人ひとり裁かれる。そして沸き立つ大鍋の中に投げ込まれたり、鏡台の前に座って自らの生前の悪行を見せられたり、鋸で手足を切り取られたり、地獄の門衛に追われ棒で打たれたり、糞尿の池に投げ込まれる。その恐ろしい光景を目にした人々が、なんとしても西方浄土に行こうと強く願ったことは想像に難くない。

 浄土信仰は唐や宋の時代に一世を風靡した仏教思想だ。仏国浄土に往生するためには前世や現世で善行を積むのはもちろん、臨終の瞬間まで熱心に仏の名や経文を唱えつづけることが求められた。念仏に専念するためには世俗を離れた静かな場所が求められるようになり、弥勒経で説かれている「老人入墓」という風習が盛んになった。

 老人入墓とは、「人命まさに終わらんとす。自ら塚間に行詣して死す」(「弥勒下生経」)、つまり、寿命が近づいたら自ら墓に入り、そこで臨終を迎えることを指す。弥勒経変相図に描かれた「老人入墓図」は二つの部分から成っており、墓地を描いた部分では当時造られた墓の中の様子を覗き見ることができる。寝床が設けられたり絨毯が敷かれているだけでなく、壁も飾りつけられており、まるで小さな寝室のようだ。もう一つの部分は墓に向かって歩いてくる人の群を描いたもので、足元のおぼつかない老人に手を貸したり、車に乗せたり、あるいは食べ物や生活用品を運ぶ人の姿が見える。老人たちは俗世から離れ、死ぬまで心安らかに仏の道を求めることで天に昇ろうとすのだ。第二十五窟の老人入墓図では、老人が心穏やかな様子で墓中の寝床に座り、泣き叫ぶ子や孫たちの手を握り、別れを告げている姿が描かれている。

 老人入墓の起原はインドにあると言われる。『大唐西域記』には「インドでは老人の死が近づくと、肉親や友人が集まって宴を開く。老人は船に乗りこみ、ガンジス河の中に身を投げる。こうすることで天に昇ることができると信じられている」という記述がある。この風習は中国では唐代に広まり、中唐期にもっとも盛んになった。しかし老人入墓の風習は、敬老の精神や天寿をまっとうすることを重んじる儒教的観念と相容れなかったため、やがて否定されるようになり、五代以降は徐々に下火になっていった。

西域民族の供養人

 供養人とは、石窟を造営するときに出資した人物を指す。高官や富豪が個人または家族で出資する以外に、下級の僧侶や役人あるいは庶民が出資しあって供養人になることもあり、石窟にはすべての供養人の姿と名前が刻まれた。楡林窟には西域の民族が供養人になっている窟が少なくない。

 第39窟前室に続く甬道には回コツの供養人が描かれている。山の形をした冠から組み紐が伸び、あごの下で止められている。丸襟で袖の細い赤の礼服を着ているが、これは官吏が朝廷で着た官服だ。皮の腰帯から垂れ下がっている「組綬」は玉のついた絹の帯で、唐代の官僚の印でもあった。また彼の腰には、遊牧民が持ち歩いた七つの生活道具が下げられている。佩刀=(脇差し刀)、刀子(ナイフ)、礪石(といし)、契ひつ真、えつ厥、針筒(針入れ)、火石袋と呼ばれるもので、そのうち契 真とえつ厥は、回コツ語の音訳なので、具体的に何に用いられた道具なのかはよく分かっていない。唐の時代には漢族の社会でも西域民族の服装が流行し、八世紀中頃の上元年間には、九品以上の官僚はこうした刀やといしなどを入れる袋を携帯することが義務づけられた。

 第29窟南壁の東側には三人の西夏の男性が描かれている。彼らは冠を戴き、やはり丸襟で袖の細い礼服を着ている。そのうち二人は皮製の腰帯を巻き、武官に与えられた護髀という装飾品や組綬を下げ、足元は黒い革靴で固めている。人物像の脇には西夏語の説明書きが添えられており、一人目は「□□□沙州監軍摂受趙麻玉一心皈依」、二人目は「施主長子瓜州監軍司通判納命趙祖玉一心皈依」とある。組綬も護髀も身につけていない三人目はおそらくその子供であろう。彼らの後方には二人の童子が立っており、その一人は、麻の靴を履いた侍者で、もう一人は「孫没力玉一心皈依」との説明がある。童子たちは頭の頂部だけを剃った特徴的な髪型をしている。

 南壁西側の女性の供養人は四合花釵冠をかぶり、刺繍の入った礼服を着ている。三着の服を重ね着しており、その色の組み合わせが美しい。この窟は、ある家族が出資して作られたものだと考えられている。

 元代に造られた第六窟前室の西壁南側に描かれているのは、蒙古族の供養人だ。寝床(蓮花座)の上で男女があぐらをかいて向かい合い、それぞれの手に三つ又の金剛杵が握られている。男性が戴く宝冠には鳥の羽が飾り付けられており、秦や漢の時代に中原地方で用いられたやまどりの毛のついた冠を連想させる。辮髪が肩まで伸び、半袖の長着を着て、ブーツ状の靴を履いている。女性が被る宝冠は縦に長く、やはり片側に鳥の羽が差してある。袖口の細い長着を着ているのは、彼らが蒙古の貴族である証だ。

 楡林窟は多くの民族の手によって造りあげられた石窟であり、様々な民族文化が交じりあう舞台だったのだ。(最終回)    (2001年6月号より)