中国の西夏語専門家は先般甘粛省景泰県のある民間収集者が20余年間珍蔵していた手書きの文書を鑑定した結果、これは貴重な西夏語の願かけの文の文書であることを発見した。
「西夏語の活字研究の第一人者」といわれる甘粛省武威市文化館の孫寿齢館員はこの文書を鑑定し、それを翻訳した。氏は、この文書が西夏の宗教芸術、民族信仰、民間の気風、民俗および西夏語の書道芸術、文字の構造などを研究するうえで重要な価値があると語った。
この文書は全部で16枚の小さなページからなり、写本、ページには破損した個所があり、上にヘビの形の図案が2つある。筆跡から見て、2人によって書かれたものとみられ、1〜8ページおよび15、16ページは初心者の自筆らしく、書体がぎこちなくて未熟で、9〜14ページの筆使いはなめらかで、行・草書も規範化されており、一定の書道のテクニックと実力を身につけた人の手によるものと見られる。孫寿齢氏は、文書には始めと終わりの部分がなく、題目もないため、書き写した経文が一体どの経典のものなかは、現在特定しにくいが、内容から分析して、この手書きの本は西夏の頃にある民家の人たちの幸福を祈った願かけの文である、と見られている。そのほか、文書の中のヘビの形の図案は初めて西夏の文書の中で発見されたもので、その時の十二支の中の竜(当時ヘビの形をしたものは一般に竜を指す)である可能性があり、現地の民間の崇拝の慣習と関連がある可能性もあると語った。
こうした事情に詳しい景泰県保存書類局局長の高正録氏によると、この文書は1976年に発見され、1983年に景泰県で発見された著名な西夏語『金光明最勝王経』の欠落した巻より早い時期のものである。収集者としての景泰県蘆陽鎮農民の馬世魁さんはずっとそれを公表しなかったため、20余年来、外部の人たちや中国の学者はそれをずっと知らなかった。
中国の史書の記載によると、西夏文字は西暦1036年につくられ、西夏の開国の皇帝であった元昊が人を派遣して漢字の字形とタングート族の人の発音をもとにつくったもの。その後、「国書」として、西夏語は西夏の国内で全面的に普及され、政府と民間の主な使用文字となった。1227年、蒙古の軍勢が西進して西夏の首都を攻略し、西夏語の文献の多くは戦火の中で破壊され、西夏国の滅亡にともなって、西夏文字も保存されなくなり、後世の人の言う「死んだ」文字となってしまった。
孫寿齢氏によると、現在中国で保存されるか、発見された西夏語の文献はそれほど多くはなく、黒城文書(19世紀の初めに内蒙古自治区のオジナ旗で発見されたほか、現在ロシアのアカデミー東方研究所サンクトペテルブルク支所に収蔵されている)、敦煌文書の中で発見されたほか、甘粛省の武威、景泰などの地区で少量の発見があっただけである。そのほか、中国の学者の中では、今やわずか数人だけがこのような文字を知っており、西夏語を解読するとともにそれを翻訳・研究することができる者はさらに稀である。
(「チャイナネット」より)2003/3/31
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