かつての中国人民志願軍はアメリカ捕虜を
どのように扱ったのか?――歴史のひとコマ


 最近、アメリカ軍がイラクでイラク人捕虜を虐待したみにくい行為がしきりに白日のもとに晒されていることは、人々に戦争捕虜の問題について考えさせるものである。では、50余年前の朝鮮の戦場においてかつての中国人民志願軍はアメリカ軍の戦争捕虜をどのように扱ったのか?このことについて、『環球時報』記者は『人民日報』のベテラン編集者、かつて朝鮮戦争時のアメリカ軍の捕虜を管理する仕事に携わったことのある周元敏女史を訪ねた。周女史は当時のことを思い起こして次のように語った。

 中国人民志願軍は朝鮮に入って戦闘に参加して、まもなく幾千幾万の「国連軍」兵士を捕虜にした。そういうことで、わが軍は朝鮮北部の碧潼(Pyoktong)でかなりの規模の戦争捕虜収容所を作った。捕虜を上手に管理するため、中国人民志願軍は中国全国から英語の通訳を募集した。上海復旦大学などで勉強していた数多くの男女大学生が碧潼に来て戦争捕虜管理係りとなり、私はその中の1人であった。1952年、20歳になったばかりの私はアメリカに抵抗してたたかう朝鮮を援助する中国人民志願軍の一兵士として、「中国人民志願軍碧潼捕虜管理処第二大隊」に配置され、通訳の仕事を担当することになった。当時、私が所属していた第二大隊にはアメリカ軍の捕虜が200人以上もいた。

 中国の軍隊は捕虜を殴ったり罵ったりすることは許されず、足でちょっと蹴ってもだめで、これは中国の軍隊の鉄の規律であるからだった。中国の兵士は捕虜のポケットを検査せず、捕虜たちがタバコやその他の個人用品を所有することを認め、金の腕時計などの貴重品に至っては、捕虜管理処によって統一的に登録、管理され、捕虜が送還される時には、それを彼らに返還したのであった。」

 朝鮮の冬は非常に寒く、志願軍は捕虜たちに綿入れの服、綿入れの帽子、綿入れの手袋、布団と毛布を支給し、捕虜たちが寝るオンドルも暖かい温度が保たれた。捕虜たちは毎日米、小麦粉、ジャガイモ、大豆と肉などを食べることができ、志願軍の連隊長クラス幹部の食費基準を享受した。欧米の人たちは砂糖を食べることが好きなので、捕虜管理処は毎月捕虜たちに白砂糖を一定量供給した。これらの食品はいずれも志願軍側が八方手を尽くして国内から調達してきたものであった。人々を憤慨させたのは、われわれの一部の兵士がこれらの食品を輸送していた時、アメリカ軍による爆撃で死んだことである。その後、捕虜管理処はまたトースト・パンを作る機械を購入し、アメリカ人たちに彼らの好きなトースト・パンを提供することになった。ある日、わが軍はアメリカ軍のパイロットを1人捕虜にしたが、管理係りはそのパイロットが重傷を負い、至急輸血しなければならないと気づき、すぐ戦争捕虜総病院へ移送した。総病院側は直ちに国内から血漿を取り寄せて、一部の中国人医師はさらにみずから献血してそのパイロットの命を救った。

 戦争の捕虜たちは労働に携わることはなかった。余暇をより豊かにするため、捕虜管理処はわざわざ香港から英語の書籍と雑誌を取り寄せて捕虜のために図書室を作った。捕虜管理処はまた捕虜たちのためにスケート、チェス、バスケットボールとラグビーなどのスポーツ用品をそろえた。ラグビーは当時、中国でもあまり見かけなかったスポーツであり、総務要員の脳にはそのイメージすらなかったが、あちこち問い合わせてどうにかこうにか香港からラグビーのボールを取り寄せた。

 捕虜管理処は異なる国、異なる民族の宗教信仰を非常に尊重し、捕虜たちに自分の宗教信仰に基づいてそれぞれキリスト教のクリスマス、感謝祭、イスラム教のゴルバン祭、断食明けの日などを過ごさせた。特にクリスマスと中国の春節(旧正月)の頃になると、戦争捕虜収容所は数日連続して祝日の雰囲気に満ち、捕虜たちもさまざまな出し物を自作自演した。ゲリンという捕虜は家族への手紙の中で、「このクリスマスは、真夜中の12時から2時まで、収容所全体には賛美歌の歌声がこだまし、語り合う声、笑い声が夜明けまで絶えなかった。中国の軍人はまた僕たちのためにプレゼント、キャンデー、ケーキ、リンゴ、アーモンドと酒を調達してくれ、収容所一帯には祝日の雰囲気がみなぎっています」と書いた。

 捕虜収容所では、アメリカ軍の捕虜は管理・教育要員を恐れることはなかった。最も恐れた者は自分たちの戦友――アメリカ軍のパイロットであった。碧潼の戦争捕虜管理処の空き地には大きな「POW」(prisoner of war、戦争捕虜の意味)という文字が書かれており、上空からそれが見えたにもかかわらず、アメリカの爆撃機は任務を達成するためにしばしば戦争捕虜収容所を爆撃した。米軍の爆撃機が来ると、戦争捕虜たちの頭上を飛び交い、無差別爆撃を行い、捕虜たちはあまりもの恐ろしさにあちこちへ逃げまわり、ひいてはブタ小屋に身を隠したものもいた。そのような時になるたびに、中国人民志願軍の戦争捕虜管理要員たちは、生命の危険を冒して捕虜たちを志願軍の兵士たちが掘った防空壕に避難させた。戦争捕虜を保護する中で命を落した捕虜管理要員も何人かいた。戦争捕虜管理要員たちの勇敢さと犠牲を恐れない精神に対し、米軍の捕虜たちは非常に感激し、彼らは「真のなにものをも恐れない精神の持ち主だ」とたたえたが、自分の国の爆撃機とパイロットをしきりにののしった。当時、数多くの捕虜が米軍による爆撃で死んだ。

 1953年に『朝鮮戦争停戦協定』が調印されてから、碧潼戦争捕虜管理処の米軍捕虜は次々に送還された。アメリカの戦争捕虜たちは中国人民志願軍が彼らのために用意した中国のお茶と果物を手にして元気な姿で板門店を経由して帰国の途についた際、しきりに振り向いて歩きながら大声で「さようなら!ありがとうございました!」と叫んだ。

                             「チャイナネット」 2004年6月1日