外交文書を公開 カシミール・プリンセス号関連も


  外交部は19日、外交文書5042件の一般閲覧を開放した。外交文書の公開は今回が2回目。注目されたのは「カシミール・プリンセス号事件」に関連する80件近い文書で、国内外メディアや多くの市民の関心が集まった。49年間も封印されていた文書の公開は、事件の経緯をまざまざとよみがえらせた。

 1955年春、中国は周恩来総理を団長とする代表団を、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に派遣した。周総理は予定では4月11日、エア・インディアのチャーター機「カシミール・プリンセス号」に乗り、香港からインドネシアの首都ジャカルタを経由してバンドンへ向かうはずだった。しかしカシミール・プリンセス号は同日、香港を離陸して4時間以上たった午後6時30分ごろに爆発、同機に搭乗していた中国側要員8人と外国人乗組員3人は全員死亡した。幸いにも周総理は臨時に計画を変更しており、昆明からヤンゴンを経由してジャカルタに到着した。これが世界を震撼させた「カシミール・プリンセス号事件」だ。

                      「人民網日本語版」 2004年7月21日