共産党軍が救った日本の女児、65年ぶり恩人に再会

 

抗日戦争中、中国共産党・八路軍の聶栄臻元帥の部隊に命を救われた日本人の少女が24日、65年ぶりに命の恩人と再会した。現在69歳になる栫(かこい)美穂子さんは65年前、戦火の中を八路軍兵士の楊仲山さん(現在82歳)に助けられ、救護所まで送り届けられた。

今は足が不自由であるため、介助人に支えられながら面会場所を訪れた楊さんは、栫さんが現れるなり、手にしていた杖を投げ出し、栫さんと堅く抱きあった。栫さんは「65年前に私を助けてくださって、本当にありがとうございました。とても感謝しています」と何度も繰り返した。

楊さんが当時の状況を語り始めると、栫さんは遠い昔に自分に起きた出来事に思いを馳せ、はらはらと涙をこぼした。

1940年8月20日夜、楊さんの属する晋察冀軍区(今の河北省・山西省に相当)第1分区第3連隊第1大隊は、河北省井ケイ炭鉱の東王舎新鉱への攻撃命令を受けた。当時17歳だった楊さんが戦友とともに炭坑の重要なポイントとなる小山の堡塁に突入したとき、両親を亡くして取り残された少女・栫さんを発見した。砲弾が降り注ぐ中、楊さんの部隊の中隊長は、栫さんを大隊本部の救護所まで送り届けるよう命じた。楊さんはすぐに栫さんを抱えて堡塁を離れ、流弾から身をかばい、鉄条網をくぐり抜け、封鎖壁を乗り越えて、真っ暗なコーリャン畑をさまよった。楊さんは夜明けまで一睡もせず、栫さんを無事救護所まで送り届けると、すぐさま部隊に引き返した。

1980年、「日本人の少女、あなたはどこに」というタイトルの新聞記事と聶元帥が栫さんの手を引いている写真を見て、楊さんは栫さんのその後を知った。救出劇から40年たって、二人はようやく連絡を取ることができた。栫さんは楊さんに送った手紙の中で「私の小さな命が助かったことは、みなさまが人道主義の人であり、世界の平和を愛する人であることを証明しています」と綴ったという。

再会を果たした楊さんと栫さんは、感激もひとしおだったようだ。楊さんは嬉しげに栫さんへの贈り物を取り出した。それは日本の富士山と中国の万里の長城が刻まれた小さなバッジで、中日の世々代々にわたる友好を象徴したものだ。

もう一つの贈り物は、栫さんにとっては思いがけないものだった。楊さん封筒から特別に用意したビスケット数枚を取り出し、「当時、コーリャン畑の中は寒く、空腹だったが、食べ物は黒くて硬いビスケットしかなかった。あなたは二口ほどかじってみたが、硬くて食べられなかった。今日は北京で一緒に今風のビスケットを食べよう。味はどうか」と言って勧めた。栫さんは喜んで受け取って少し食べ、「おいしい、おいしい」と何度も繰り返した。

待ちわびた時間は長かったが、再会のひとときはあっという間に過ぎた。別れに際し、栫さんは楊さんの手を握りしめ、同行した日本人の友人とともに、楊さんが若い頃に習った日本の唱歌「赤とんぼ」を歌った。

(井ケイのケイは「こざとへん」に「坙」)

「人民網日本語版」2005年8月26日