中日友好交流

 

中国青年が日本に触れる

1986年11月、中曽根康弘首相(当時)は訪中時に、毎年100人の中国の青年を日本に招待する計画を提案し、中国側もこれに同意した。翌1987年、第1陣の青年たちが訪日を果たした。「中国青年報」が伝えた。

それから20年間、中日関係がどう変化しようと、この事業は継続されてきた。この事業で訪日した中国の青年は2006年末までに計4258人に上る。中国の改革開放がまだ初期段階にあった1987年当時、日本の環境保護理念、日本企業の技術投資、日本人の社会道徳などは、初めて外国を見た多くの団員に、深い印象を残した。

楊永培さんは1990年に訪日した。彼女が三重県で目にしたものは、整った環境、進んだ施設、どの農家にもある自家用車だった。「当時わたしたちは、トイレの水を流すボタンがどれかもわからなかったのです。今はもちろん、わたしたちの所にもありますけど」――。楊さんは6月30日に行われた「中日青年友情計画20周年記念フォーラム」で、少し恥ずかしげにこの「小さな秘密」を打ち明けた。日本で彼女を驚かせたものは、発達した物質文明ではなく、普通の人々の環境保護意識だった。農家にホームステイしていると、この家の若い娘さんが早朝から「一緒に行く?」と声をかける。何か面白いことでもあるのかと外に出て初めて、彼女が大通りの掃除に行くことがわかった。その小さな村では、各世帯が順番で公共の場所を掃除していたのだ。

北京青年宮の馮松青さんも同事業で訪日した1人だ。奢侈や浪費を求めず、勤勉で節約する日本人の姿が深く印象に残った。接待する側も、派手なごちそうで招待するのではなく、弁当1つで済ますこともある。豪華なホテルではなく、質素な日本旅館の畳部屋に宿泊したが、みんなが親しく付き合い、何でも話すことができたという。

日本人が中国青年を理解する窓口

在中国日本大使館の岡田勝一等秘書官は、1990年に外務省に入局した。中国語の流暢な岡田秘書官は、中国青年との「合宿」への参加を自ら求めた。「合宿」は、両国の青年が同じ家に宿泊し、何でも話し合う、訪日事業の面白いプログラムだ。「昼間は会議室で討論し、夜になると部屋でおしゃべり。人生観、価値観、歴史問題、台湾問題から、彼女をつくる方法、女性の地位まで、話題にならなかったものはない」と、岡田秘書官は回想する。両国の青年には共通した考えがあり、共通した問題も抱えているが、敏感な問題になると、双方の姿勢は同じではないというのが、岡田秘書官の感想だ。両国青年の思考法は異なる。「中国人は50年不変、100年動揺せずを口にするが、日本人は来年どうなるのかを口にする。中国人は日本人よりも先を見ているということです」――。

電通北京事務所に勤務する和田雅子さんは、2002年と2003年に「合宿」に参加し、訪日代表団の経済グループと語り合った。和田さんは「中国側は専門家揃いで、とても優秀で、経済に精通していたので、80%以上の時間は彼らが喋っていて、わたしは中国の青年の気迫に圧倒されました」と言う。

松本健二さん(68)、栖子さん夫妻は、長年訪日団を受け入れている。1997年には、尼瑪卓瑪・総団長が滞在した。松本さんは当時のことについて「こんなに地位の高いお客さんを接待するので、とても緊張しましたが、会うとすぐにほっとしました。尼瑪卓瑪さんはわたしたちに餃子や中国料理の作り方を教え、娘さんの描いた絵も見せてくれました。気楽にくつろぐことができました」と話す。

沖村保範さんも訪日団を接待した1人だ。沖村さんは日中青年交流を総括して「人と人との幸せな交流です。日中友好がこれからも続いてほしい」と語る。

訪問は短くとも、友情は代々継承

日本政府による中国青年訪日招請計画は、別団体の事業とも関連している。「中日青年友誼計画(日中青年の友情計画)」「中国実務者招請計画」「中国地方青年招請計画」「青年海外協力隊日本語教師派遣計画」などだ。2006年末までに、中国各地・各職業の青年、計4258人が訪日した。国際協力機構(JICA)の提供資料によると、うち500人以上が局・部クラスの指導者となっている。わずか23日間の訪問だが、両国の青年間には友情が確立され、しかも代々継承されていく傾向にある。

楊永培氏は訪日前は農村の青年事業を担当していたが、現在では中国共産党四川省委員会台湾事務弁公室の党委員会書記の地位にある。当時楊氏を連れだって掃除に行った女の子、香津さんも大学に通う年齢となった。香津さんは復旦大学に留学。旧正月には楊氏の家に半月間滞在し、パンダも見に行って、「中国は本当に大きい」と感嘆した。

白瑪文毛さん(19)は、6月30日のフォーラムで幼少時に自分が描いた絵を目にした。母の尼瑪卓瑪さんが松本健二さんに当時プレゼントしたものを、松本さんが日本から遠路はるばる携えてきたのだ。白瑪文毛さんは、松本さん夫婦に母が宛てた感動的な手紙をその場で読んだ。松本さんは「日本に来た時は、我が家に泊まってください」と笑顔で言った。

和田雅子さんは初めて中国に来た時、言葉が通じず、寂しい時には寮で1人泣いていた。だが「合宿」時の友人がやって来て、苦しい時期を乗り切る助けとなってくれた。

中国に対する日本人の友好感情も代々継承されている。日本青年能力開発協会の堀田英人事務局長(31)は、11歳の時から中日交流事業に携わっている。堀田事務局長の実家は当時、東京の浅草寺の近くにあり、父は彼を中国から来た人たちと一緒に遊びに行かせていた。大人になると、父の事業を継いだ。堀田事務局長は「父が道を敷き、わたしは自然とその道に乗ったんです。わたしは『中日青年友誼計画』の子です」と話す。

中日両国、青年交流拡大の方針

中日両国の指導者は青年交流を高く重視しており、胡錦濤国家主席と安倍首相も、青年交流を拡大する方針で合意した。温家宝総理の4月の訪日では、日本側は「21世紀東アジア青少年大交流計画」に基づき、今後5年間に中国の高校生を多数日本に招待すると発表。双方は青少年間の交流を通じて誤解を解消し、理解を深め、共に未来を築くことを期して、大規模な青少年流計画を相互に実施することで一致した。

「中日青年友誼計画」20周年記念フォーラムで、張暁蘭・中華全国青年連合会副主席は「中日関係の発展が順調であるか否かに関わらず、この事業は民間交流特有の架け橋の役割を変わらずに発揮し、青年を始めとする、両国関係の民意の基盤を固めるために、積極的な役割を発揮してきた」と述べた。

日本の宮本雄二・駐中国大使は「この事業は両国民の心をつなぐ頑丈な架け橋。両国が意思疎通と理解を保つための基礎は青少年交流にある」と述べた。

6月30日のフォーラムでは、中日青年交流のより良い未来のため、両国の代表が提案を行った。倪健・中華全国青年連合会副秘書長は、研修と交流を平行して進め、両国の青年間に友情の架け橋を築くことを提案した。国際協力機構(JICA)の海保誠治部長は、同計画に全員が積極参加し、政府間事業から社会全体の事業へと転換させることが必要との認識を示した。

「人民網日本語版」2007年7月3日