婁菲さん(33歳)と夫は、同じ外資系企業で働いている高給取りだ。2001年、彼らは北京の南郊外に、3階建ての一戸建て住宅を手に入れた。

 内装工事の際、彼女は、建築面積約180平方メートルの新居に、三つの「衛生間」(トイレと浴室)を設置した。一階は客人専用とし、浴室は作らなかった。二階には、トイレとともにシャワールームを取り付けた。三階は寝室とつながっていて、トイレの他に大きな浴槽を設置している。

 三階の「衛生間」には、足元まである大きなガラスを使い、その明るい窓際に大きな鉢植えを置き、ベランダにも花を植えた。浴槽から窓外を望めば、大自然が目に飛び込んできて、心地よさを味わえる。


「厠所」と「衛生間」

婁さんは、自宅の「衛生間」について語るとき、少しだけ得意げな表情を見せる

 多くの中国家庭と比べると、婁さんの家の「衛生間」は広く、快適で、しかも便利。ハード面が豪華になっただけでなく、主人の「用を足す概念」が根本的に変わったことが原因だ。

 かつての中国には、「衛生間」という婉曲的な表現はなく、「厠所」という直接的な表現があるだけだった。日本語に言い換えれば、トイレ、洗面所、お手洗い、ユニットバスのような遠まわしな言葉はなく、便所しかなかったと言えるだろう。

 しかも中国では、その「厠所」自体が、必ずしも各戸にあったわけではない。北京中心部の古い平屋建て住宅では、用を足したくなったら、胡同(横町)の公衆便所まで出掛けて、「問題」を解決していた。

 朝の胡同では、ふだんは身だしなみを整えているお隣さんが、寝巻きにサンダルといういでたちで歩いている光景に出くわし、いつでも気まずい思いをした。

天安門広場近くには、大型イベントの際に「テント式の簡易便所」を設置した名残りがある。長方形のふたをとれば便所になる。

 アパートには幸い、各戸に便所があったが、面積が狭く薄暗い空間だったため、用を足せるだけで、浴室の機能もそのスペースもなかった。以前は、住宅供給が追いつかなかったために、古いアパートの部屋に、二家族が同居していたこともあったが、そんなアパートの住人たちが、一つの便所を共用するのは、苦痛以外の何物でもなかった。

  一方、中国の南方では、家庭ごとに「馬桶」(おまるとして使った木製のおけ)を使う伝統があった。上海のような大都市では、毎朝、あちこちで「馬桶」を洗う光景が見られ、ゴシゴシとこする音が聞こえてきたものだった。

 都市再開発において、公衆便所の設置は、欠かすことのできない事業である。しかし、中国のかつての公衆便所に対するイメージは、堪えがたいものだった。80年代末まで、「北京で公衆便所を探すには、鼻があれば大丈夫。異様な臭いをたどりさえすれば見つけるのに苦労しないから」と、一部の外国人から嘲笑されていたほど。

 当時の公衆便所は、きわめて不潔だっただけでなく、設備もお粗末だった。一歩踏み入れると、そこには低い塀で区切られた空間と穴があるだけで、ドアはなかった。人は用を足している最中に顔を見合わせることになるため、面白がった日本の観光客から、「ニーハオトイレ」と呼ばれていたと聞く。

婁さんの自宅には三つの「衛生間」がある

 近年、中国がますます開放されたことで、大都市は、イメージ改善の努力を惜しまなくなり、公衆便所の改造が、その柱になっている。北京を例にすると、市政府は毎年、4000万元を公衆便所の改造に投入している。改造過程では、実用性に重きを置き、いまでは、女性用公衆トイレが男性用より多くなっている。

 また、すべての公衆トイレをバリアフリー仕様にすること、乳児台や身体障害者用の緊急呼び出しボタンなどを設置することも要求されるようになった。そして、より多くの人が便利さを享受できるよう、2006年までに、「歩いて5〜10分で公衆トイレを探せる環境」を作り出す計画を立てている。

 天安門広場の西北角にある公衆トイレは、最新モデルだ。中央空調システムを導入し、連れの女性を待つ男性の便宜を図るためのソファーが置かれ、荷物台、幼児台、独立式化粧台、身体障害者専用通路などもそろっている。意味深いのは、ここが、かつて大衆を組織して行った各種イベントの際に、「テント式の簡易便所」を設置していた場所から、目と鼻の先であることだ。今となっては、「手軽に快適に用を足そう」が、市政府の公衆トイレ改造のスローガンになっている。

 変化が起きているのは、もちろん公衆トイレだけではない。「改革・開放」から二十数年の間に、中国人の居住環境は次第に好転してきた。住宅の面積が広くなり、部屋の質が向上し、より多くの人が、アパートに住むようになり、家族専用の「衛生間」を手に入れた。

かつて、都市に欠かせなかった公衆浴場はほとんど姿を消したが、代わりに、入浴センター、サウナ、足裏マッサージなどの新しい産業が生まれている

 入浴環境は、人が何よりも先に解決したいと考える問題である。特に北方の冬の寒さは厳しく、南方の人のように、外で水を浴びて入浴に代えることはできない。

 70年代以降、一部の大都市では、プロパンガスを使い始め、ガス温水器が、急速に普及し始めた。私が自宅で初めて温水器の恩恵を受けて入浴し、途切れることなく温かいお湯が出てきた時には、「幸せ」という以外表現しようのない心地よさを味わった。しかし同時に落ち着かなくなった。「ガス代は高いだろうなあ。なるべく速くシャワーを使い終わらなきゃ」と計算したからだった。

 温水器が普及すると、今度はさらに便利なバスルームに改善しようと、人々は、一連の細かな改造を加えるようになった。セメントの壁や床に防水仕様で拭き掃除にも便利なタイルを用い、窓には湿気を浴室に残さないための換気扇を取り付けた。使えるスペースは充分に活用し、小さな棚やスタンドを準備し、入浴用品や衣服などを置く場所とした。衛生への要求も徐々に高くなり、清潔さを追求することが日課となった。それとともに、用を足す場所に使われていた「厠所」という呼び名も、浴室の概念も含んだ「衛生間」に変わっていった。

必要性と習慣の変化

昔ながらのアパートには、どんな内装をほどこしても、簡単には解決できない問題がある。それは、「衛生間」そのものの面積が狭すぎることだ。多くの家庭の「衛生間」は、わずか四平方メートル程度しかなく、シャワーを取り付けるのが精一杯で、浴槽をつける人は少ない。

北京の胡同(横町)に、庶民の生活とともにあった「公衆便所」は、都市開発が進むにつれて姿を消しつつある

 90年代以降に建てられた新しいアパート(マンション)は、「衛生間」の面積が、5〜6平方メートルと次第に大きくなったが、浴槽を取り付ける人はまだ多くはない。多くの人が、シャワーなら短時間で入浴できて便利で、衛生的でもあると考えているからだ。浴槽に浸かることができれば気持ちはいいが、掃除に手間がかかる。婁さんも、浴槽のある浴室を使う回数は、シャワー室を使うよりずっと少ないと話す。

 入浴は、生活に欠かせないものでありながら、かつての北方の人たちにとっては、利用環境が整っていなかったために、ちょっと贅沢で手のかかることだった。

 以前は、多くの人が公衆浴場で入浴していた。公衆浴場には、シャワーだけのものと、浴槽があるものの二種類があったが、多くの人はシャワーを使った。70年代のシャワー代は一回0・26元、浴槽がある浴室の利用代はその約2倍で、石けん、タオル、サンダルを利用できた。当時、一部の企業・事業体は、四半期ごとに一定の枚数の入浴券を配布し、福利厚生としていた。ただ、多くの家庭では、これらの入浴券を家族で共用したため、一人ひとりが使える枚数には限りがあった。

北京の観光地には、最新の移動式公衆トイレが設置されていて、無料で利用できる

 一部の大規模な企業・事業体は、従業員用の浴場を所有していて、従業員に無料で開放していた。その家族も、形式的なわずかな金額で利用できたが、そんな浴場は、毎日開放されていたわけではなく、一般的に、隔日で男女が交代で利用できただけだった。

 このような条件のもと、多くの人は仕方なく、週に一回、または二週間に一回だけ入浴する生活に慣れ、夏でも、毎日家で体を拭いて入浴に代えた。

 しかし最近では、生活が豊かになってきたことで、就寝前の入浴が、大多数の都市生活者の習慣になり、多くの人が、朝シャンの習慣を身につけた。こうすることで、頭をすっきりさせられるだけでなく、寝ぐせなどを取ることができ、清潔感が増す。

現在、かつて「公共厠所」と呼ばれていた公衆トイレは、「公共衛生間」と心地のよい名前に変わった

 「衛生間」でもっともよく見かけるのは、各種各様の入浴用品で、家族で別々の入浴剤やシャンプーを使うことも少なくなくなった。それは、好みの違いだけでなく、必要性の違いが原因である。婁さんは、「髪や皮膚の特質は一人ひとり違うため、別々の商品を使うのはおかしなことではない」と説明してくれた。

 しかし、もし30年前なら、まったく違った光景を目にできた。当時の中国人の入浴用品はみすぼらしく、洗濯石けんと、体と髪の毛の両方を洗うために使った入浴石けんがある程度だった。中にはお金を節約するために、入浴の際にも洗濯石けんを用い、「脂をきれいに洗い流せるから使う」といった理屈が通った時代だった。

 70年代初期には、「洗髪膏」というシャンプーとは呼べないような洗髪クリームが流通していた。これは小さな紙袋に包装され、卵の黄身のような色をしたクリームで、レモンの香りがした。当時は、「洗髪膏」で洗髪することでさえ、贅沢なことと言えた。

 消費者は、市場に出回っている入浴用品の清潔にする機能だけでは物足りなくなり、より付加価値の高い商品を求めるようになっている。例えば冬には、皮膚の乾燥を防ぐために、保湿機能の高い入浴剤を選ぶ人が多く、頭髪の発育を促すシャンプー、パーマや毛染めで痛んだ髪に潤いを与え、髪をいたわるシャンプーが、女性から注目を集めている。

生活を享受する場所

部屋の内装工事では、バスルームのデザインがますます重視されるようになっている
天安門広場の北西角に新築された公衆トイレ

 婁さんは高給取りだが、非常に忙しく、定時に仕事を終える日は多くない。彼女はこう言う。「仕事のプレッシャーがあるから、帰宅して初めて、速いリズムから開放される。快適な「衛生間」が好きで、ひとりで誰にも邪魔されずに過ごせてこそ、心からリラックスできる。経済的には余裕があるのだから、快適に過ごすための方法を考えるのは当然のことよ」

 自宅の内装工事には20万元を使ったが、バスルームにつぎ込んだ額は、その15から20%を占めた。

 最近では、古いアパートか新しいマンションかに関係なく、内装工事を行う際に、誰もが「衛生間」のデザインに工夫を凝らし、極力、自分が快適だと思う環境を創造するようになった。家具・建材市場に並ぶバスルーム用の内装材料の品質も向上している。色、形が豊富になり、より個性的で使い勝手のよい設計が増えるにつれて、人々の注目度もますます上がっている。

解放初期、北京の胡同には、便所の汲み取りを行う人の姿が見られた

 浴室設備の品種だけをあげても、目が回るほどの数がある。浴槽には様々なサイズがあるほかに、マッサージ機能や波を起こす機能など、水流の違いもある。シャワーも、大小様々な浴室に合わせた種類があり、シャワールーム全体を美しく仕上げ、様々な角度からシャワーを浴びることができるものや、サウナ機能付きのものまである。

 経済的に余裕のある人は、いまの「衛生間」には満足していない。彼らは、「衛生間」の個性的な設計と内装で、自分の生活趣味と審美感を表現している。二、三の「衛生間」がある新しい住宅では、主人用と客人用の「衛生間」を分けるだけでなく、化粧台や更衣室の機能を持たせることもできるようになった。そこに置いた鉢植え、個性的な絵画、それに専用の本棚や新聞スタンドからは、「衛生間」こそが、主人が生活を享受する理想の地ではないかと思わせる。

 「衛生間」は、最もプライベートな空間である。そのためか、現代社会では、人はこの空間に清潔さを求めるだけでなく、風格、雰囲気、品質をも追求するようになった。これは、心の内面の変化であり、経済・社会の変化がもたらした新潮流であり、社会生活に対して、さらに多くの影響を与えるものである。(2003年9月号より

「改革・開放」後の中国家庭の「衛生間」(トイレと浴室)の変化
 ※年代は目安、このような変化が起こっているのは一部の家庭です。

◆1970年代
 ・トイレとシャワールームが一体となっていて、「衛生間」そのもの が粗末だった

1980年代
 ・シャワー式の蛇口と洗面台が家庭に普及

1990年代
 ・浴槽、洋式便器、洗面台の3つは、スタイル、色を統一することが 理想と  され、床や壁にタイルが用いられるようになった
 ・主人の「衛生間」と来客用の「衛生間」を分ける家庭が現れた(90 年代後  半には、2つの「衛生間」のあるマンションが登場)

1990年代後半以降
 ・浴室スペースに設置可能なシャワールームユニット出現
 ・浴室とトイレの機能を分離
 ・多機能、ニューコンセプトの衛生器具が次々に誕生(マッサージ 機能付   の浴槽、サウナ付の浴室、自動殺菌機能付の便器など)
 ・「衛生間」の機能分離の進行(浴室面積の拡大にともない、「衛生間」は、  浴室、洗面所、更衣所、トイレなどのそれぞれの機能
  をもった区域に分かれ、それぞれ独立した空間になってきた)

様々な入浴用品が家庭に入ってきた