蘇州河に生きる
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バラック地区のいまむかし

                 写真陸傑 文程乃珊

   上海市の貧民区は、かつて「バラック地区」とも「都会の中の村」とも呼ばれた。一列一列並んだ古い住宅は、ゆがんで傾き、乱雑なまでに込み合っていた。上海のバラック地区は前世紀末までに、敷地面積365万平方メートルもあった。相当数の上海人が、下水道もなければ、都市ガスも洗面所もない劣悪な環境で暮らしていたのだ。
 

食事どきには隣家と接する物干し台にテーブルを置く。「うちのおかずを、隣の子どもに」

 バラック地区に住み着いた「初代」の多くは、20世紀初頭に長江以北の省市から、たとえば江蘇省北部や安サユ省などから船をこいでやってきた。ゴミと工場廃水の悪臭がただよう蘇州河の流れに従い、工場地区の岸辺に身を寄せて、生きるすべを探したのである。

 その後、肉親や同郷人らがつてを頼ってやってきて、河岸に住まいが広がった。彼らの多くは同族で血縁関係にあったため、原始的な集落のように義理人情の厚い、助け合いの精神が守られていた。こうした温かなつきあいは、こんにちの都会では詩歌で言えば「絶唱」である。

 潭子湾は、上海市西北部の普陀区に位置する。上海新駅から遠くないが、公共バスは潭子湾へは入り込めなかった。かつては見渡すかぎりのバラックで、人口密度の最も高いところは1平方キロ6000人あまり。込み合っていて狭いため、ここでの暮らしは透明で、プライバシーなどほとんどなかった。夫婦げんかは、外に出て「公衆の空間」で行われていた。家の中ではあまりに狭く、けんかをしたら物や家まで壊れるからだ。それに戸外なら、隣近所に善悪の判定を下してもらえるからだった。

夏の納涼「晩餐会」。ふるさと江蘇省北部のお国なまりで戯曲を演じる人と、郷愁にかられる近所の人々

 水道がないので生活用水は給水ステーションに並び、容器に入れて肩に担いだり、両手に提げたりして家まで運んだ。往復するのが大変なので、貴重な水は仔細に量って上手に使った。たとえば洗面器一杯の水は、顔を洗い、足を洗い、最後にモップ掃除用の水として溜めておくのだ。個人はもとより共同の浴室がなく、水の持ち運びも大変なので、人々はみな露天の給水ステーションのわきで、手足や顔を洗ったものだ。

 生活は質素だが、にぎやかで人情味にあふれていた。豆炭コンロを戸外に置くと、それだけでキッチンになった。雨の日にはカサをさしたが、主婦たちはそれでも煮込みや炒め、蒸し物と巧みなまでに調理をしていた。食事どきになると、隣家と接する物干し台に板を置いてテーブルにし、自家製ベーコンや買ってきた紹興酒などをズラリと並べた。前菜四種と料理四種の「宴会」だった。

「両湾一宅」は、水の景色も美しい「中遠両湾城」になった

 壮観な眺めといえば、初夏になるころ、戸外で涼む人々の群だ。熱波のよどむ「村」内に、竹製のイスや腰掛けを並べ、イワシのようにギュウ詰めになって涼をとる。冷たい井戸水にはスイカやユリ根と緑豆のスープ、ビール瓶が浸してあった。小さい腰掛けの上には、香瓜子(ウリ類の種を炒ったり、ゆでたりして味付けしたもの)や豆腐乾(乾燥または燻製にした豆腐製品)などの食べ物が置かれ、分け隔てなくみんなで食べた。こうした自発的な集まりは、今や「村」を離れた人々の忘れられない思い出となっている。

 市民の「百態風俗画」として聞く限りでは、味わいがあるだろう。しかし、実際の生活は鑑賞画でないばかりか、衣食住の苦労が伴う。以前、バラック地区で中学教師をしたことがある。家庭訪問に行くと、クモの巣の「迷宮」に入り込んでしまうかのように、しばしば道を間違えた。雨の日になると、狭い通りでカサが挟まれ、身動きがとれなくなった。

新しい住宅は、地元民以外の人たちも引きつけている

 改革・開放が進むにつれて、上海の様相も日増しに新しくなっている。「上海の新しい環境には適さない」というバラック地区の改造計画が、市政府の議事にかけられたのは1991年。市政府は「20世紀末までに市街区のバラック365万平方メートルの改造を完成させる」という、略して「365工事」を決定、住民たちには新居を提供することにした。数年間の努力により97年末、全市のバラックは、改造が最も難しい125万平方メートルを残すだけとなった。そのうち面積40%近くに当たる、1万500戸の世帯と企業・事業機関160あまりが入り組んで構成される普陀区の「両湾一宅」(潘家湾、潭子湾、王家宅という地区)の改造が、最大の難関となったのである。

 しかし「両湾一宅」は、市街区の住宅建築計画では、なかなか得がたいゴールデン地帯であった。場所や交通、環境などの面で、じつに有利な条件がそろっていた。南に蘇州河を望み、1・8キロの長い河岸を有する。蘇州河が整備されるに伴い、地価もすぐに上がるだろうと考えられた。

 だが、このように規模が大きく、難しい工事を引き受ける企業はそう簡単には現れなかった。ここ数年、国内外の不動産開発業者百社あまりが市政府と商談したが、居住密度の高さ、移転数の多さなどから、あまりにもコストがかかり、利潤が低いと退いたのだ。

 98年、中国遠洋置業集団が「両湾一宅」の開発工事を請け負った。2001年2月、海南省の博鰲で行われたアジアフォーラムの期間中、江沢民主席は工事の進展状況を尋ね、この「民心の工事」をしっかりやるように指示した。上海市政府も、それを「サラリーマン層の豪華ビル」として作り上げるよう、求めたのである。

 「中遠両湾城」と改名された「両湾一宅」の計画建築面積は160万平方メートル、総投資額は66億元(1元は約15円)。上海の中心地では、当時最大の旧地区改造プロジェクトだった。

 それは良好な社区(コミュニティー)環境であるだけでなく、知的システムや教育文化と、市政を組み合わせた点に明らかな特徴がある。たとえば、・ハイテクを利用した社区サービス、防犯監視コントロール、ブロードバンド・データシステムがある、・現代的な9年制私立校が一校、ハイレベルの幼稚園が三カ所、および「上海市少年才能芸術ギャラリー」「中遠少年児童ピアノ学校」などがある。これらの施設で、社区の住民に最高の英才教育と文化的な教養を提供するのだ。

 このほか、格調の高いショッピング・ストリートをはじめ、いこいと娯楽、ショッピングの空間を一体化したショッピングモール、テニスコートやプール、トレーニング・ジムや美容院などがあり、現代的な雰囲気に満ちあふれている。

古い番地も主人といっしょに新居に移った

 その昔、乱雑で汚れていたバラック地区は、今やすっかり消え去った。それに代わったのが、蘇州河の岸辺にそびえる「水景住宅」である。1・85キロの河岸線には、「観浪広場」「河浜公園」「海港式の生活レジャー区」などの六大景観区がある。橋梁や緑の藤とヤナギ、ここに暮らす人々の姿が、幸せに満ちた都市の河岸風景を形成している。新設された「中遠両湾城」の住民は、都会の中の農村のような静かな環境で、落ち着いた日々を過ごしている。

 2001年夏、上海で最高気温が36度以上の猛暑が何日も続いた時、両湾城では、どの家にもエアコンがついていた。かつてバラック地区で涼を取った「楽しさ」を思い出し、彼らは笑いながらこう言った。「あれは仕方がなかったんだよ。苦しみの中に楽しみを見出したんだ。でも今は、改革・開放の幸せを十分にかみしめているよ!」 (2003年3月号より)