蘇州河に生きる
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人々の暮らし 見つめた天后宮
             写真 陸傑  文 葉樹平

 
昔の天后宮は、今や住宅となっている

 蘇州河には「河南路橋」という橋がある。またの名を「天后宮橋」という。その「天后宮」は、橋の北側のたもと――河南北路3号にあり、繁華街において廃れてしまった古寺である。

 

「お互い、広い空間が欲しいね」

 蘇州河には「河南路橋」という橋がある。またの名を「天后宮橋」という。その「天后宮」は、橋の北側のたもと――河南北路3号にあり、繁華街において廃れてしまった古寺である。

 上海市街区には、もはや忘れられた寺院が少なくない。繁華街の中心、南京東路の「紅廟」はその昔、香火が絶えることはなかった。しかし、都会の変遷の中で、かつての痕跡が少しも見られないほどに変わってしまった。

 西側の法華鎮路には、かつて「法華禅寺」があった。ここも敬虔な信者たちが足しげく参拝に訪れた、にぎやかな場所であった。現在は、上海交通大学の分校内に、亭々とそびえる二本のイチョウが残るだけだ。

 永嘉路瑞金二路の入り口には「淡井廟」という寺院がある。境内には、楡の古木が天にそびえていた。その樹齢は、宋代(960〜1279年)から数えられると推定された。1940年代のこと、ある民間の祭りに参加していた人たちが、その古木に神様の「霊験」を認めた。古木は「揺銭樹」(金のなる木)であると見なされた。

住宅の上にも「場」をつくり、空間を利用する

 ある時、古木の枝に落雷があり、火事が起こって、それは大きな騒ぎとなった。その後、寺院は小学校と工場に占用されたことがあった。古木は枯れて切り倒された。寺院もすっかりなくなった。

 それでは現在、天后宮はどうなったのか?

 河南路橋をわたると、さまざまな店舗が軒を連ねてにぎやかな通りの中に、見栄えのしない門洞(屋根つきの奥深い通路)がある。その通路に面して、天后宮が目に入った。それは、すっかり民家がひしめく「大雑院」(数世帯が住んでいる大きな庭)に変わり、神聖だった雰囲気が消えさっていた。しかし、天后宮の面影は少なからず残っていた。

 天后宮の大殿(本堂)は、1982年に松江方塔公園に移された。市クラスの文化財保護建築で、今や観光名所となっている。

 大雑院となった天后宮は、東の桟敷が取り払われて、粗末な二階建ての住宅で覆われている。西の桟敷と戯楼(舞台)だけが、ほぼ完全な姿で残されているだけだ。今では、その西の桟敷にも「改造」が加えられ、二階建ての住宅になった。その建物は貸家となって、合わせて7世帯が住んでいる。

 戯楼は絶えず「刷新」、「拡張」されて、その二階建ての建物には八世帯が住んでいる。戯楼の二階に住んでいるある三人家族は毎晩、天井の真下に横になる。数え切れないほどの木彫装飾をながめつつ、美しい夢を見るのだ。

かつてのにぎわいが、そこここに見られる

 大雑院に建てられた数多くの粗末な小屋は、いずれも民家が「拡大発展」したものである。ところ狭しと物が置かれ、入りくんだ通路の先も、二階へどうやって上るのかも、わからなかった。かつては大雑院じゅうで一つの蛇口、一つの電気メーターを共用していた。食事どきになると、数十の豆炭コンロに火が起こり、煙や熱気が立ち込めた。

 今では、小さな電気メーターが各家にそなわり、石炭ガスも使われている。蛇口も増えた。狭くてきゅうくつ、古いという不便さは相変わらずだが、なごやかで親しみやすい雰囲気がそれらを和らげていた。「夜も戸締りの必要がなく、落し物を拾う者すらいない」ということわざ通り、同族の集団のようなのである。

 週末になると、別居している子どもらが帰り、一家団らんの時を過ごす。新宅に越した者も、もとの近所を訪ねては旧交を温める。ある家でマージャンを打てば、ある家でカラオケを歌う……。つまり、合わせて30世帯、百人以上の住民が、あたかも「たにしの殻の中で修行」したのだ。苦しい中にも、楽しみがあった。

 その昔、天后宮にも輝ける時代があった。歴史上、貿易港の上海においては、貿易商や船頭たちがみな「天后」、いわゆる「海神娘娘」(海の女神)をあがめて祭った。もともと16鋪の小東門にあった天后宮は、戦乱のために焼失。現在の天后宮は、清代光緒10年(1884年)に、使節大臣であった崇後が、朝廷の認可を得て創建したものである。

台所は狭いが、料理の味はバツグンだ

 敷地面積5994平方メートル。大殿、戯楼、東西二つの桟敷、宮殿などがあり、それらはきわめて壮観だった。

 昔は祭りの日になると、神様を迎える隊列が果てしなく続き、町じゅう総出で、にぎやかなことこの上なかった。天后宮はまた、清代の重臣・李鴻章の旅先における臨時役所でもあった。

 天后宮は蘇州河の桟橋に近く、北側近くの河南北路には、1898年創建の松滬鉄道駅があった。その河南北路は「鉄馬路」と呼ばれた。交通の便がよく、辺りはにぎわっていた。

 その後、数十年の歳月が流れ、人々も変わっていった。引っ越していく者があれば、越してくる者もあった。ある者はここで生まれて成長し、寺院隣の小中学校に入学したり、卒業したりしていった。彼らは天后宮の過去についてはよく知らず、それを聞く者もきわめて少ない。最大の関心事といえば、「いつになったら新居に引っ越せるか」ということだろう。戦乱をまぬがれて、今でも天后宮にいる老人たちは、数えるほどしかいない。老人たちは天后宮の変遷の証人である。

 いずれにしても、ここを去らなければならないだろう。蘇州河は改造しなければならず、その両岸にも建設が迫られていた。老人たちには、老人たちの思いがあった。昔の住まいを懐かしみつつ、天后の神が未来を守ると希望を抱いたかもしれない。

次の世代はここを離れて、広々とした家に住むだろう

 1998年夏、市街区を流れる蘇州河の西側では、建物の取り壊しや移転に人々の関心が集まった。レンガや瓦を打ち砕くかなづちの音が、蘇州河に沿って流れくだり、天后宮の人々の心を揺さぶった。

 ニュースは瞬く間に広がった。それは幸せの「雷鳴」だった。天神からもたらされたものではなく、それこそが現実だった。天后宮の人々は、あの老人たちを含めて、一日も早く「その日」が来ることを心待ちにしている。不便な住環境が改善され、新居へと移り住むという美しい夢を描いているのだ。2003年10月号より