たくさんのチャンスが

崔利彬さん(24)
北京海淀区大慧寺路居民委員会副主任

 

 私の父は昔、知識青年だったので下放した経験があります。夢や希望を押し殺していた時代でしたから、北京へ帰ることだけが彼らの最大の夢だったそうです。帰京してからも生活は苦しくて、仕方なく生まれたばかりの私を河南省北部の{ぼく}{よう}濮陽の実家に預けました。私はそこで育ちましたが、少女時代というのはあれこれ夢を見るのが当たり前でしょう? けれど貧しい田舎暮らしで、夢が抱けるような状態ではとてもなかった。十七歳で高校を卒業した時には、大学に進学して家族と一緒に北京で暮らしたい、とそれだけを願いました。でも河南での受験競争はかなり{し}{れつ}熾烈で、進学は狭き門。残念ながら最終的には不合格でした。それで発展した沿海地方の杭州で仕事を探し、コンピューター会社のセールスマンやバイク工場の統計係として働いたのです。美しい西湖のほとりに暮らして、あっという間に三年の月日が流れました。杭州は好きでしたが、やはり北京が忘れられなかった。それで結局、北京へ戻り、職探しをしたのです。広告会社でタイプ打ちや製版、製作などの仕事をしたほか、デパートの販売員もしました。

 去年、居民委員会が役員を募集していたので、ためしに試験を受けたのです。筆記試験、面接がみんな通るとは思いもよらなかった。委員会で募集したのが「高卒以上の学歴を持つ青年」で、たまたま私が若かったので合格したのだと思います。その後、委員会の役員改選があって、なんと副主任に選ばれました。三百戸以上の住民約一千人へのサービスの提供や地域の諸問題を解決するためがんばっていますが、時には嫌味をいわれることもあり、プレッシャーはかなり大きいです。中国では地域社会の活動レベルがまだ低いので、その質を上げるためには、努力を惜しまず着実に取り組んでいくことが必要だと思います。私は知識不足ですから夜学に通い、帰宅後は連日深夜の一時、二時まで勉強、土日も授業を受けています。大学専科(短大)の単位を取る「高等教育自修試験」を受けて、すでに十単位の修了証書を獲得したんですよ。だから思いのほか「スピード卒業」できそうです。将来は勉強を続け、大卒の資格をとるつもり。時には遊びたいな、と思うこともありますよ。でも遊ぶと後悔するんです。遊んだ時間に本が読めたのにってね。結婚なんかいまは考える余裕もありませんよ。

 私は夢多き人間ではありません。小さい頃は大学に受かって北京に帰ることしか考えず、何をしたいかなんてあれこれ思わなかった。今はただ若いうちにたくさん勉強して実力をつけ、地に足をつけて一歩一歩前進し、社会の役に立つような人間になりたいと思います。居民委員会の役員を続けることもできるし、会計士になることもできる。つまり二十一世紀は、若者が夢を実現させるチャンスがいくらでもある。父親の頃よりずっとずっと選択肢が広がり、自ら選ぶことができる時代なのです。

 
 

人生の成功者に
 荘瑩さん(24)
 外資系企業OL

 

 小学生になった時、一つの夢がありました。女優になることです。映画スターではなくて、舞台俳優になるつもりでした。とくにお芝居を観るのが好きで、ベテラン俳優が演じる老舎の新劇『茶館』は、何回観たことでしょう。中でも有名な人民芸術劇院の林連昆さんが一番好きな俳優です。舞台の上に立った時のあの感覚は、なんともいえない素晴らしさがあると思います。それに役者はいろいろな役柄を演じ分けて、観客に異なる人生を味わわせてくれるのです。それで学生の時には、詩の朗読やイベントの司会などで、しょっちゅう舞台の上に立ちました。舞台の上のあの感覚が好きなのです。でも大人になったら、こういう考えはちょっと幼稚だと思うようになりました。職業学校に進学して、卒業後は北京飯店のサービス係の仕事に就きました。いってみれば若い時にしかできない仕事です。将来のために仕事が終われば夜間大学で外国語を学び、その後ついに国営企業の社員になりました。まずフロント係、次にだんだんと昇格して総経理の秘書になり、最後には董事長(代表取締役)の秘書になりました。今年の四月にはまたトラバーユして、香港系のインターネット会社の総経理補佐になりました。総経理はいつも香港にいますが、基本的なことは私に任せて、てきぱきと仕事を片付けるのです。インターネット関連は最先端の職業です。時代に遅れたくはないけれど、実際はインターネットについて知っていることは多くありません。国営企業にいた時よりも上下関係は厳しいし仕事はきついですが、毎日インターネットを使って電子商取引を勉強しています。この会社で長期的に働くかどうか決めていません。もしもっといいチャンスがありさえすれば、そちらへ転職します。私の夢は、出稼ぎからスタートして、みるみる夢を実現させたキャリアウーマン・元マイクロソフト中国有限公司総経理の呉士宏さんのような成功者になること。

 私のかつてのクラスメートは、ある人は株主になり、またある人は有名な合弁インテリア専門店・宜家(IKEA)の人事部長になりました。人は努力さえすれば、夢を実現させることができるのです。みんながこんなに大活躍するなんて、学生の頃は考えられませんでした。サービス係を続けていたら今頃どんな暮らしをしていたか、想像もつきませんよ。

 
 

ミャオ族文化の整理と保護を

 姚作舟さん(20)
 中央民族大学学生

 

 私は、貴州省黔(けん)東南ミャオ族トン族自治州生まれのミャオ族です。名前は、名句の「学海無涯苦作舟」(学問の海に涯なしといえども、苦を舟とす)から取られました。これはエンジニアの父と教師の母が、私を励ます意味で付けたものです。

 一九九八年に、中央民族大学中国文学部に入りました。知識を広げ、将来の「就職戦線」に勝ち残れるよう、文学を専攻するほか、ジャーナリズムや秘書、貿易、経済学などのカリキュラムを選択しました。しかしもし機会があれば、民族学か人類学の修士になって、ミャオ族文化を研究したい。

 ミャオ族は古くから、文化や居住地が移り変わってきた民族で、素晴らしい文化を創造したこともあります。聞くところによると、中国で最も偉大な詩人・屈原はミャオ族だそうです。屈原のいた楚の国は当時、ミャオ族の居住地でした。後にミャオ族は南へ移り、最後に南方の山地に散らばって住みつきました。ミャオ族の歩みは苦難に満ちていて、文化の損失も相当なものでした。ミャオ族にこんな古い昔話があります――ミャオ族と漢族はもともと兄弟でした。ある日、川を渡る時に、兄さんのミャオ族は口に文字をくわえ、荷物を持った弟の漢族を背負って、川の中を歩いて渡りました。川の流れが急に激しくなったので、兄さんが後ろを振り向いて「気をつけて!」といいました。その時、誰も気付かなかったのです。兄さんがくわえていた文字が川に落ち、みるみる流れていってしまった、と。この昔話は、文化を継承していくことの難しさを象徴するかのようですね。

 そうそう、今日はミャオ族のお祭り用の衣装を持ってきたんですよ。手の込んだ美しいデザインが刺繍されたジャケットとスカート、そしてサッシュ(幅広ベルト)。私が大学に進学した時、貴州省台江県の祖母と伯母が作ってくれたものです。銀のネックレスと髪飾りは母が買ってくれました。台江県のミャオ族独特の衣装なんですよ。村落が異なるとデザインがまた違うのです。あるミャオ族は、衣装の上に民族の歴史を残しました。彼女たちが刺繍するデザインやマークには、ふるさとの自然や風景、流転のいきさつが表されています。研究によると、あるミャオ族の衣装に残されたマークが、長沙の馬王堆漢墓から出土した服装のものと驚くほど似ているそうです。しかし現段階では、残念ながらこのマークが何を意味するのか解読されていません。

 ミャオ族は居住地が散らばっており、いくつもの支族があります。それぞれの支族にはたいてい異なる習慣・風俗・文化があります。目下、学者の多くはある特定の支族の研究に集中しているため、ミャオ族の総合的な研究が欠けている状態です。そこで私の夢ですが、ミャオ族文化を系統的に整理して、保護していきたい。休暇で帰省すると、祖母の村に行って民族文化を探訪し、記録します。{ろ}{しょう}蘆笙祭りに出かけて、歌や踊りの輪の中に自分を溶け込ませるのです。たとえば各地からミャオ族が集まって行う竜舟(ペーロン)祭りや蘆笙踊りなどは、毎年八月八日に開催されます。こうしたお祭りは、ミャオ族文化が収集できるすばらしいチャンスなのです。

 
 

韓国ポップスにひかれて
 趙せい(女に青)さん(18)
 高校生

 

 私は小さいころからたくさん夢があって、数カ月間バイオリンを習った時には音楽家になろうと思っていました。絵画も習ったことがあります。中学生になり、クラスの男子生徒の影響でバスケットボールを始めてからは「バスケット選手はカッコいい。なかなかいい職業かもしれない」と思いました。当時、みんなはアメリカのプロ・バスケットボールリーグの「NBAで会おう!」なんていって盛り上がっていましたね。おととし、駐ユーゴスラビア中国大使館爆撃事件があった翌日、私もクラスメートも、ものすごく憤慨してアメリカを罵倒しました。その時は記者になろうと決めたんですよ。これこそ意義のある尊い仕事だと思ってね。またある時には、外国暮らしのできる大使になりたかった。私は今年十八歳。年齢的には大人だけれど、考え方はまだまだ未熟ですね。  

 人生の中で最も苦しい思いをしているのが、高校三年生の今。大学受験は過酷なもので、試験の結果が人生を決めるなんてリスクが大きすぎますよね。受験しないわけにもいかないし、天才か、鈍才かを決める規準はそれしかないので仕方がありません。もともと文科系が強いけれど、理科系をめざしています。そのほうが人間としてバランスがとれるでしょう? もし文科系に進めば、希望大学に進学することができるんですが、女の子が多いので行きたくありません。私の性格は外交的だし、男の子みたいだし、ずっと男の子になりたかったから。ああ、もう考えるのはよそう。大学受験は落ち着いて一生懸命やれば、たとえ落ちても後悔することはないですよね。

 音楽が大好きです。それはかけがえのない命のようなもの。もしも音楽を聞かなかったり、歌わなかったとしたら病気になってしまうかも。音楽は中学の時、始めたんです。クラスの男の子と一緒にロックを聞きに行き、その後だんだんとポップスに好みが変わって。昨年の七月から、韓国の人気アイドルグループ「NRG」のファンになりました。私は熱狂的な韓国ファンではなかったけれど、仲良しの友達がコンサートに行きたいというので、付き合わされたのがキッカケ。コンサートは七月に北京で開催されました。メンバーの一人、キム・ファンソンが六月にソウルで病に倒れて急逝し、北京コンサートは追悼コンサートといわれていました。舞台の上の大スクリーンに彼の生活の一コマ一コマが映し出された時、多くのファンが号泣し、彼の名前を叫びました。メンバーもみんな泣きくずれて、ダンスが踊れなくなってしまったんです。私はものすごく感動して、コンサートの後、ずっとずっと彼らが好きになりました。「NRG」のポスターやCD、インタビュー記事などをあちこち探しまくりました。私は若者がポップスに熱狂するのは大人には理解できないと思います。私の夢はいろいろありますが、もし今の夢に順番をつけるとしたら、韓国でミュージシャンになること、外交官になること、そして記者になることです。

 
 

  
マンションを買って両親に

 張亦飛くん(13)
 中学生

 

 僕の夢はマンションの一フロアを買い上げて、お父さんとお母さんに住んでもらうことです。いまは住んでいる部屋が狭いから、大きな家に住んでもらいたいな。趣味は三つあります。音楽とパソコンとNBA。好きなミュージシャンは日本の人気ロックバンド「GLAY」だよ。国内の歌手は、悪いけどみんな{シャー}{ガン}「下崗」(一時帰休)すればいいのに。なんかダサくて、まだまだという感じ。「GLAY」はこの音楽雑誌にも載っているよ。先月は一千元も使ってエレキギターを買った。音楽がすごく好きなんだ。暇な時にはインターネットで遊ぶのが好き。音楽を{ダン}「当」(ダウンロード)してデジタルプレーヤーのMP3で聞いたり、アメリカのNBAも見るんだ。好きなバスケット選手? マイケル・ジョーダンは、僕たちの間ではちょっと時代遅れかな? 注目しているのはコビー・ブライアントさ。でもアメリカに行ってNBA試合を見るのは、夢とはいえないよね。簡単に実現できるからね。僕はまったく普通の中学生。だからありのままを書いてほしいな。

 
 

運転手とパイロット
 陳依然くん(6つ)

 

 僕は陳依然。パパが付けてくれた名前だよ。「依然」とは「貫き通す(初志貫徹)」という意味なんだ。来年、小学生になるんだよ。大きくなったら車を運転したいな。サンタナみたいな黒塗りの車。なんで車を運転したいのかって? それは夜、家に帰るのが遅くなった時に、オオカミと出くわしたら怖いもの。ある地方ではオオカミが人を襲ったことがあるんだって。だから北京にもいるんじゃないかと思って。家には車のオモチャがたくさんあって、本棚にたくさん飾っているんだよ。

 それからパイロットにもなりたいな。この家の近くに「西郊飛行場」があるんだ。大きな音をたてて飛行機が何度も行き来する。ものすごいスピードで飛んでカッコいいし、操縦室では隣のパイロットが操縦を手伝ってくれるでしょう。だからパイロットが好きなんだ。

 
 

ぼくの二十一世紀の夢は……

 王絡奇ちゃん(三カ月)

 

 

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