特集(3)

英語が人々の生活を変える

 英語がすでに「世界の共通語」として人々の生活にしみ込んでいることは否定できない。人のうらやむホワイトカラーは、いつも英語の単語を話の中にさしはさむし、普通の庶民も「バイバイ」とか「イエス サー」とか「ハロー」とか言うのはもう癖になっている。英語はますます多くの人に受け入れられ、吸収され、中国語の新造語と同じように人々の記憶の辞書に収められている。これとともに、人々の生活や観念、思考方式も日増しに国際化している。

3回目の英語ブーム

英語学習校の申し込み窓口では、みんな自分に適した学習班を選ぶ

 中国では、英語はいくたびかブームになり、また鎮静化してきたが、一度も途絶えてしまったことはなかった。そしてブームのたびに、人々の生活に少なからぬ波紋を広げてきたのである。

 1950年代、中国に最初の外国語ブームが到来した。そのときに主として学ばれたのはロシア語だった。その後だんだんと、英語がロシア語にとって替った。だが「文革」の時代には、政治的原因で、人々は外国語学習から離れていった。当時、『大公報』の国際部主任だった張契泥さんは、当時をこう回顧する。「あの時代は、いかなる外国語の本を読むこともまったくできなかった。マルクスの『資本論』の原著を読んでいても、一部の人に『外国を崇拝し、こびへつらう』と言われたものだ」

米国人留学生のジョン・ナーセンは、北京のスーパーの英語コーナーで教えている

 78年の中米国交樹立後、米国人は「米国の鬼子(野郎)」とイコールで結ばれることはもうなくなったが、「我々は中国人だ。どうしてABCを学ばなければならないのだ」という考えは、依然広くあった。当時、多くの都市の中学、高校には英語の授業がなかった。大学でも、英語の教材は乏しく、いつも学生が授業を受けるたびに、先生たちは教材を編集して作らなければならなかった。

 後に、北京人民放送局から「業余(勤務時間外)の英語学習ラジオ講座」の放送が正式に始まると、60万冊の教材はあっという間に売り切れた。そこで教材は3回増刷して、やっと需要を満たすことができた。ラジオの売れ行きも、この放送にともなって急増した。北京の新華書店の店員は「英語のラジオ講座の教材は、建国以来もっとも売れた本で、買いに来た人がカウンターを押し倒すほどだった」と回顧している。

北京の西郊にある紫竹院公園には、英語を学ぶ一角が設けられている

 大規模な英語学習のブームは、80年代に始まった。この時、中国は、改革・開放によって英語を話す人材を渇望していたから、第1次の英語ブームが巻き起こったのである。82年には、テレビの英語学習番組『跟我学(Follow me)』が始まり、たちまち一世を風靡した。多くの電話や投書がこの番組に殺到し、英語学習のやり方を尋ねたり、学習の成果を交流したりした。教材の第1冊だけで百万冊売れた。番組は5年も続き、全ての放送を録画した人さえいた。

 中学、高校では、英語がカリキュラムに組み入れられたばかりでなく、小学校の一部でも英語の授業を始めるところが出始めた。

 81年12月11日、北京、上海、広州などで、初めてトーフルの試験が行われた。当時の受験生は285人に過ぎなかったが、5年後の86年には1万8000人に増え、その数はいまも絶えず上昇し続けている。

 88年10月から、北京人民放送局はカナダ国際放送局とともに合同で、『毎日英語』の講座を開き、これを放送した。その教材が発売される初日、空がまだ暗いうちに、書店の前には数千人の長い行列ができた。8万冊の教材が、2日間のうちに全部なくなった。その後、30数万冊を増刷し、基本的に読者の要求を満足させることができたのである。

ある幼稚園では、先生が2歳前後の子どもに英語を教えている

 90年代に入り、英語ブームは再び高まった。当時、外国留学や外国との商売のブームが高まり、各種の英語学習校も、雨後の筍のようにあちらにもこちらにも出現した。「会話班」「ヒヤリング班」「強化班」「速成班」……。さまざまなレベルのラジオ局、テレビ局も、独創的な英語番組を次々に放送した。書店には各種の英語の読み物が数え切れないほどずらりと並べられた。英語の辞典は、もともと3、4種類だったのが数十種に増え、多くの辞典は輸入された原書だ。

 現在、中国で起こっている3回目の英語ブームは、まさに全国の各階層に広がり、21世紀初頭の一つの焦点になっている。

喜びも憂いも

 英語は、その他の言語と同様に、人と人が交流するための道具である。とはいえ、中国では、この道具に、かなり多くの要素が加味された。その要素とは「成功」と「品位」である。

 王さんは大学卒業後、すでに数年経つが、ずっとある会社の一介の職員であった。彼は自分の同級生や友人が海外に出たり、修士課程に進んだりしているのを見て、自分も平々凡々とぶらぶら過ごす気持ちにはなれなかった。そこで彼は思い切って会社を辞め、一年間、懸命に勉強して、ついに北京のある大学の修士課程に合格した。

 1年後には、今度はコネを使ってオーストラリアに行き、いくつかの学習終了証をもらった。彼が帰国してみると、人々は、流暢な英語を操り、「外国の証明書」をいろいろ持っている王さんをたちまち見直し、いくつかの会社が彼を営業マネージャーに招聘したいと言ってきた。

 当世の若者にとっては、英語はもうひとつの生活の指標のようになっている。人々はみな、英語ができるようになりたいと思い、英語のうまい人を羨ましいと思っている。中国語の中にしょっちゅう、英語の単語をさしはさむのが一種の流行になっている。そうすることが身分を示すシンボルで、それによって自分の価値を高く宣伝したいと思っているのだ。

 英文が裏にびっしり印刷されている名刺を持ち歩いている人もいる。この名刺はもともと外国人に渡すためのものではない。彼は英語がほとんどわからないのだが、こんな名刺を作ったのは「みんながそうしているから」で、「かっこよくみせるためだ」というのだ。

 英語がまったくわからないのに、流行っているからと、卑猥な言葉や悪ふざけの言葉を印刷したTシャツを着て街中を歩く者もいて、多くの笑い話のタネになっている。

 英語ブームの過熱にともなって、英語の文化も、知らず知らずのうちに人々の暮らしの中に入ってきた。最も典型的なのは、欧米の祭日が、中国のカレンダーの中にひんぱんに現れることだ。「父の日」「母の日」「エープリルフール」などなどである。なかんずく「クリスマス」は、多くの「善男善女」をひきつける。

 2001年12月25日の夜は、北京の街角に大風が吹き、気温も零下20数度に下がったのだが、キリスト教会の内外は灯りが煌々と輝き、とてもにぎやかだった。どの酒場もレストランも、クリスマスのとんがり帽子をかぶった若い男女でいっぱいだった。このにぎやかな光景は、数日後の、ひっそりとして物寂しい元旦の夜と、くっきりしたコントラストをなしていた。

西安に住む古希を迎えた蔡仲芳さんは英語を学ぶため、テープレコーダーと英語の書籍を買った

 現在、学生の親たちの中に「英語を学ぶのは早いほど良い」という観念が広く存在している。胡さんは、海南省で事業を成功させた教養ある女性だが、子どもに英語を学ばせるため、彼女は思い切って高校一年の一人っ子の娘を、高い費用を払って北京に行かせ、英語を学ばせた。一年後には、さらに英国に行かせた。彼女は子どもが本場の英語を学ぶなら早く出国させた方が有利だと思っているようだ。

 李平さんは普通のサラリーマンだが、息子が三歳になったばかりだというのに、生活を切りつめて、3万元の入学金を払い、息子を市内でも有名なバイリンガルの幼稚園に行かせた。それは「小さいころから、子どもを言葉の良い環境の中に置くため」である。

 こうした現象に対し、外国語を学ぶのが早過ぎると、母国語の学習に影響が出るのではないか、と心配する人たちもいる。

 最近、中国のある教育機構が、全国規模で6歳から12歳までの子ども4万人が参加する統一テストを実施した。このとき、多くの親たちは互いに、「このテストの成績は、進学する際に有利になるのでしょうか」と尋ねあったという。

 専門家は少し心配してこう指摘している。「功利的な色彩が強すぎると、子どもの英語学習の興味がそがれ、機械的に『証明書』を求めると、一部の学生が『中国式英語』をマスターするという悪い結果を引き起こすだけだ」と。 (2002年8月号より)