その2
ピンポンの球が世界を動かした
卓球一筋に生きる荘則棟さん
              文・楊 珍  写真・劉世昭 郭 実

定年退職後の荘則棟さんの自慢の一つは、彼が主宰する卓球クラブである

 1964年の『人民中国』5月号を開いて見ると、『人物訪問 荘則棟君』という記事が写真とともに大きく掲載されている。(以下 文中敬称略)

 当時、23歳の荘則棟は、すでに中国では誰でも知っている有名人だった。彼は北京で催された第26回世界卓球選手権大会で大活躍し、男子シングルと男子団体でそれぞれチャンピオンに輝いた。その2年後、彼はチェコスロバキアのプラハで開催された第27回世界卓球選手権でもタイトル防衛に成功した。

 『人民中国』に記事が載った後の1965年、彼は当時のユーゴスラビアのリュブリャナで挙行された第28回世界選手権で再びタイトル防衛に成功し、三連続チャンピオンを達成し、世界的に注目を集めたのである。

 しかし「文化大革命」による大混乱のため、中国卓球チームは第29回、第30回の世界選手権には参加しなかった。だが1971年、中国チームは名古屋で開かれた第31回世界選手権に捲土重来して参加した。以前よりやや太った荘則棟は、最後の力をふり絞り、中国チームが男子団体で世界チャンピオンの座を奪取するのに大きな功績をあげた。

 荘則棟と中国卓球チームの勝利は、苦しい日々を送っていた中華民族を大いに鼓舞した。以前、「東アジアの病人」という帽子を被せられた中国人は、いまやその帽子を投げ捨てた。中国はもはや、オリンピックで誰も軽視することができない。中国がスポーツ強国になる過程で、卓球は終始、先頭に立って戦う尖兵の役目を果たした。そして荘則棟は、それを象徴する人物なのである。

 『人民中国』のインタビューの中で、荘則棟が中日友好協会の理事をしていたことが書かれている。当時の卓球の世界では、中国と日本が世界の1、2を争っていた。中日双方の選手たちは「試合では好敵手、試合が終われば良き友人」という間柄だった。荻村伊智朗、木村興治、三木圭一、小中健、高橋浩、松崎君代、少し後の長谷川信彦、河野満ら、きら星のごとく輝く選手たちの名前は、当時の中国人の耳にもなじみの深いものだった。

最近の荘則棟さん

 同様に、中国の世界チャンピオンの選手たちも日本では知名度が高かった。中日双方の選手は、友好の民間大使としての役目を十分果たし、中日国交正常化に積極的な役割を発揮したのだった。

 中米両国の和解もピンポンの球から始まった。名古屋で、一人の米国の選手が誤って中国代表団の専用車に乗ってしまった。冷戦時代だったため中米双方とも、ばつの悪い思いをしたが、荘則棟が前に進み出て、この米国の選手に、万里の長城を編み出した一幅の緞子を贈り、友好的な言葉を交わした。

 ここから、世界を揺るがした「ピンポン外交」の序幕が開かれたのである。敵対する両国の青年が親しく腕と腕とをとり合って仲良く語り合う情景は、永遠に歴史の一こまとして残ることだろう。

 これに続いて、米国の卓球チームが招きに応じて中国を訪問して交流し、中米の政府関係者がひそかに接触した。ニクソン米大統領が飛行機から降りてきて、周恩来総理と握手したそのとき、冷戦時代の固い氷が溶け始めた。中米国交回復は世界を揺るがし、人類の平和事業に深遠な影響をもたらした。これこそ世に言う「小さなピンポンの球も大きな地球を動かすことができる」である。

 『人民中国』は再び荘則棟を単独インタビューし、そのときの様子を紹介した。彼はこの「ピンポン外交」によって、人生のもう一つの頂点に向かって進んだ。そして国家体育運動委員会主任に任命されたのである。

反省から再起した人生

 しかし、禍福はあざなえる縄の如し、である。速すぎる昇進は、政治的な眩暈をもたらす。「文革」が終わると彼は「文革」中に犯した罪状を調べられ、処罰され、人生の谷底に転がり落ちた。

 壁に向かって反省すること4年。彼は山西省に向かった。浮き沈みの激しい人生を経てきた彼は、すべてに対して執着がなかった。しかし卓球だけは捨てられなかった。彼は山西の卓球チームを指導し、わずか1年で、全国大会で素晴らしい成績を収めた。お気に入りの門下生である管建華は、世界女子シングルの銅メダルを獲得した。彼が書いた卓球の専門書『闖と創』は、卓球をする人にもしない人にも興味を持たれるベストセラーになった。

 80年代の中ごろ、彼は北京に帰ってきた。そして彼がむかし、卓球を習いはじめた少年宮体育学校のコーチになった。そして2年前に定年退職した。だが60歳を超しても彼は依然としてぶらぶら過ごすことはなかった。山東省の済南で卓球の学校を開き、自ら校歌や校訓を作った。卓球に特色がある北京・中関村の国際学校に招かれて、体育顧問となった。

 また、女子シングルの元世界チャンピオンの丘鍾恵とともに「荘則棟・丘鍾恵国際卓球クラブ」を創設した。このクラブができた時には、国家体育運動委員会の責任者や著名人が開校式典に出席した。米国の元国務長官のキッシンジャーら外国の友人たちも祝電を寄せた。

 荘則棟はこのほど、再び『人民中国』の記者の取材を受けたとき、「長い間、ためらっていたのだが、かつてのチームを率いた張鈞漢、チームメイトの張燮林、チ恩庭、丘鍾恵らの調停と、特に木村先生の勧めで、卓球協会との宿怨を終わらせることをついに決めた」と明かした。

 そしてかつてのチームメイトの徐寅生、李富栄と会った。「相逢うてひとたび笑えば恩仇泯ぶ」。荘則棟と彼らが肩を並べて写真におさまったが、それはかつて世界の最高表彰台に並んだ晴れやかな少年たちの姿と二重写しとなった。

 荘則棟の最初の結婚は、80年代初めに崩壊した。二度目の結婚は、さまざまな曲折を経て、ケ小平が特に許可を与え、佐々木敦子との国際結婚となった。前妻の子である男の子と女の子はすでに自立し、時々やってくる。

 荘則棟は毎日、車で妻を職場に送り迎えし、自分は卓球クラブでコーチをしている。閑なときには書道の稽古をしたり、京劇を歌ったりする。毎日がのんびりとしていて幸せであるという。

 彼は時々、招かれて外国で講義をし、卓球を広めることに残った情熱を注いでいる。(2003年6月号より)