その4
胡同は消えつつあるが
庶民はたくましく生きる
                  写真・魯忠民 文・張 彦 丘桓興

 「一滴の水も太陽を映すといいますが、北京の小胡同にも、大都市の一般市民の生活が反映されています」――これは1986年8月号の『人民中国』に載った北京・東銀絲溝胡同のルポルタージュの冒頭の一節である。しかし「大胡同三百六、小胡同如牛毛」と言われるほど多かった北京の胡同は、いま取り壊しが進み、急速に姿を消している。

 あの東銀絲溝胡同はどうなったろう。胡同の入口の茶店で、お茶を売っていた魏おばあちゃんはどうしただろう。そんな思いを抱きつつ、もう一度、東銀絲溝胡同を訪ねた。

公園になった胡同

 東銀絲溝胡同は、天安門から東側に延びる赤い壁の北側にある。ここはもともと紫禁城の外側の皇室専用地で、一般庶民は立ち入りができなかった。しかし1911年の辛亥革命で清の王朝が覆ったあと、一般庶民が皇室専用地の中を流れる菖蒲河(別名、銀絲溝)の川岸に家を建て、それが東銀絲溝胡同となった。

 かつてこの胡同は全長百メートル足らず、道幅はわずかに2、3メートルに過ぎなかった。そこに15の四合院があり、45戸の人々が住んでいた。四合院の中の長屋は狭くて汚かった。

整備された菖蒲河公園

 いまはどうなったろう。長安街に面して天安門の東側にある南池子の大きなアーチ型の門をくぐった。そこに東銀絲溝胡同があるはずだ。しかし、目に入ってきたのはなんと、きれいに整備された公園だった。胡同は影も形も無くなっていたのである。

 新たに作られたその公園は、菖蒲河公園という。公園内を菖蒲河が東西に貫いて流れ、その流れにいくつかの小さな橋が架けられている。両岸には枝垂れ柳が植えられ、花壇が作られている。何本かの古木には標識が付けられて、文物として保存されている。また金色と青に塗られた亭や楼閣、歴史を感じさせる「東苑戯楼」などが、観光客を魅了している。

 かつてここに住んでいた人々はどこへ行ったか。そしていま、どんな暮らしをしているのだろう。

 86年当時、すでに七旬に近かった魏おばあちゃんは、胡同の入口に屋台を出して、大きな茶碗に茶を入れた「大碗茶」を商っていた。この商売を始めてから一年余りで、魏おばあちゃんはテレビと冷蔵庫、ラジカセ、フロア式の扇風機などの家電製品を買い、取材した記者を羨ましがらせた。

 だが「文革」中は、「大碗茶」を売るというこんな小さな商売さえも「資本主義」と見なされ、批判されたのだった。80年代初めになってケ小平が改革・開放政策を打ち出してから、政府が個人営業の「個体工商戸」の発展を奨励したので、街中に、個人経営のレストランや仕立屋、靴の修理店などのサービス業の店ができた。後には民営の百貨店、洋装店、旅館、本屋もでき、それによって多くの庶民が職に就くことができただけでなく、長年、北京を悩ませてきた衣食住の困難を緩和することができたのだ。

 残念ながら魏おばあちゃんは、数年前にこの世を去ったらしい。十数年もたったのだから仕方がないことかもしれない。しかし彼女が営んでいたような個人経営の店はさらに多くなった。菖蒲河公園の脇にある南河沿大街は、民営の食品店、洋装店、雑貨店、小さなレストランなどがあり、どこも商売繁盛だ。

インテリ夫婦はいま

 「7号の屈宝坤さんと呉志玲さんは、この胡同で唯一の大卒夫婦で、屈さんは北京190中学、呉さんは163中学の先生です。夫婦は9平方メートルにも足りない小部屋で、きゅうくつにしています」と、当時の『人民中国』は書いている。彼らはすでに、北京の東にある朝陽区に引っ越したというので、そこを訪ねることにした。

 朝陽公園の東側にある石仏営東里101号楼の四階に彼らの新居があった。2DKで、面積は67・5平方メートルと、さほど広くないとはいえ、家具も多くないうえに、屈さんがうまく設計して、寝室兼応接間は簡素で暖かく、客間兼書斎は優雅で静かにしつらえてある。さらに小さなダイニングと台所、手洗い、ベランダはなかなか快適だ。「ここに引っ越してきたときは、前の胡同の暮らしと比べ、まるで天国みたいに感じたわ」と奥さんは言った。

 胡同では二人の娘たちと一部屋で暮らしていた。部屋の中に置かれたダブルベッドでほぼ半分が占領され、残りの半分に箪笥、本箱、テレビ、それに小さな四角いテーブルが置かれていた。テーブルは、食卓としても机としても使われ、夜には小学生の娘たちが宿題や予習するのにも、また夫婦が授業の準備をするのにも、いつも一つしかないテーブルを争うように使わなくてはならず、それが頭痛の種だった。

 しかもその部屋は西向きだったので、夏はまるで蒸し風呂に入っているような暑さで、夜遅くならなければ眠れなかった。冬は冬で、西北の風が入ってきて、室内でも摂氏5度になり、寒さで呉さんは喘息になってしまった。そんなことから、彼らは住宅の分配を待ち望んでいたのだが、彼らの住む東城区だけで700人以上の教師が住宅の分配を切望していて、五年以内に解決はできないと言われていた。

 思いもよらず1991年、教育局が彼らに新しい住宅を分配してくれたので、一家は大変喜んだ。学校からは遠くなったが、出勤、退勤にもバスが出て、便利だった。さらに、郊外の空気はきれいで、環境は静かだった。「もっとも満足したのは、二間の寝室はどちらも日当たりがよく、室内は明るく、冬は暖かく、夏は涼しい。住み心地が大変良いのです。それに、この数年、休養と治療に留意したので、私の喘息も良くなったのです」と呉さんは言った。

 屈さんはいま、北京財経学校に勤めている。彼はツアーガイドの学級で地理と北京の歴史を教えている。地理と名勝古跡は特におもしろいと思っているので、閑なときには遊びに出かける。

 呉さんは2年前に定年退職した。いくつかの学校から教えてほしいと頼まれたが、彼女は婉曲にそれを断った。「私はいま、毎月2000元の退職給与をもらっているので、それで十分。それに数十年も苦労して働いてきたので、これからはのんびりと暮らしたいのです」と彼女は言うのだ。

 彼女は歌を歌うのが好きで、大学のころは合唱団のメンバーだった。後に生活の重圧で、歌う気になれなかったが、いまは毎週火曜と木曜に、北海公園や中山公園に行き、市民の合唱活動に参加している。「歌を歌うのは本当に気持ちが良い。気分が良くなるだけでなく、『清気』を入れ『濁気』を出すことができ、健康によい」と言う。また彼女は、退職した学校の先生たちと香山に登る約束をしていて、毎週一回は登山を楽しんでいる。 (なお筆者の一人、張彦は弊誌の元副総編集長)(2003年6月号より)