特集 (その3)
天津と日本を結ぶ絆

机を並べる日中の院生

天津日中大学院では、日本人教師が中国人の院生に日本語の講義をしている

 中国と日本の大学院(修士)の院生が、同じ教室で机を並べて学ぶ――中国では類のない 大学院が天津市にある。「天津日中大学院」で、日本の教育法人と中国の天津科技大学が 協力し、2002年9月に開校、現在、中国人学生17人と日本人学生9人がここで学んでい る。

 専攻コースは「環境管理」と「経営管理」の二つ。学生たちは最初、日本語あるいは中国語を学び、そして専門に進む。中国の学生は、全国統一の「研究生(修士)試験」に合格した者の中から希望者を募った。日本の学生は大学卒で、小論文のテストを受け、中国にやって来た。

 カリキュラムには、中日比較論や中日交流史が必修科目になっている。国交正常化前に駐日記者として働いた劉徳有氏(元文化部副部長)らが講師となった。同じ授業を受けながら、中日の相互理解は少しずつ深まっているように見える。

 ここで学ぶ若者たちに、どうしてこの大学院を選んだのか、いまどんなことを考えているのだろうか。

 「この大学院は、日本の学生といっしょに学ぶので、他の大学とは雰囲気が違う。日本がだんだん客観的に見られるようになりました」〔2年生の葛一亮さん(23)。江蘇省出身。天津科技大学卒。将来は日系企業に就職したいという〕

 「中日間には歴史上、いろいろ不幸なことがあったけれども、国交正常化後は中日の往来はますます多くなっています。中日貿易に関心があって、将来は銀行に勤め、外国にも行きたい」〔同級生の周聖偉君(23)。天津財経学院の出身〕

 「中国人と日本人がともに学び、生活して理解しあうという考え方が気に入った。将来は中国の環境問題の研究者になりたい」〔日本人学生の富田啓一君(26)。明治大学農学部を卒業後、日本の有名政治家の秘書をしていた〕

 「大学が南京にあり、南京大虐殺のことはよく知っています。だから民族的な感情はよく分かるのですが、だからといって『南京に日本の新幹線を通すな』というのは、経済の観点からおかしいと思います」〔経営管理を学ぶ2年生の白ホさん(24)。青海省の出身。中国薬科大学卒。大学では薬学を学んだが、次第に日本の経済に興味を持ったという〕

 日中大学院は発足してからまだ日が浅い。いまのところ、天津科技大学の中の大学院で、学生数も予定した定員に満たない。理事長の森田明彦氏(元毎日新聞論説委員長)は「いま、日本人の間では中国人嫌いが増え、中国人の間では日本人のイメージが悪化している。日中の協調関係は時代の要請だから、その架け橋となる若者は近い将来、必ずあらゆる分野で引っぱりだこになるだろう。中国と日本の将来に役立つ人づくりがいまほど必要なときはない」と言っている。

天津―神戸を結ぶ海の道

天津新港に接岸した中日合弁の「燕京号」。週一便、天津と神戸を結ぶ

 毎日曜の午後、天津の沖に大きなフェリーが、その優雅な姿を現す。間もなく船は、天津新港の客船埠頭にぴったりと横付けする。船内で検疫が行われたあと、大きな荷物を抱えた乗客たちがデッキを降りてくる。日本との間を週一回往復している中日合資経営のフェリー「燕京号」(9、960トン)である。

 乗客には、中国や日本の留学生が多い。飛行機に比べ荷物をたくさん持ってこられるからだ。日本からの修学旅行生もこれまでは多かった。しかし2003年は、SARSが流行ったため、全部キャンセルになってしまった。2002年に往復で1万人を超えた乗客数が、2003年は6600人程度にとどまりそうだ。

 だが、フェリーで運ばれるコンテナは、2003年は前年より増えて、9200TEU(標準コンテナ)になった。華北地域と日本の経済的結びつきが強まっていることを反映している。

 「燕京号」は50時間で天津―神戸を結ぶ。天津にも国際空港があるが、ゆったりと船旅を楽しみながら思索にふけるというリピーターも増えてきた。何孝栄総経理は「SARSさえなければ今年、旅客も貨物も飛躍的に伸びるのではないか」と期待している。日本からの短期の観光客はノービザになり、中国から日本へ行く観光客も増える傾向にあるからだ。

 「HDS」(ホット・デリバリー・サービス)というシステムで、フェリーに積んだ貨物がドア・トゥ・ドアで、3日間で着くようになった。「これで飛行機に対抗できる」と何総経理は自信を持っている。

天津人の心に生きる周総理

天津の人々が敬愛する二人のために建てられた「周恩来ケ頴超記念館」

 日本との国交正常化の立役者であり、中国だけでなく日本でも多くの人に敬愛されている故周恩来総理は、天津の人々の心にいまも生き続けている。

 周総理は江蘇省の出身だが、天津の南開中学で学んだ。オヒ頴超夫人も天津生まれで、南開中学を卒業している。死に臨んで周総理は、自分の遺骨と灰を中国の三カ所に撒くよう遺言した。それは北京の密雲ダム、黄河の河口、それに天津の海河の河口である。

 「文革」中だったため、その作業は密かに行われた。だから天津の市民がそれを知ったのは、ずっと後になってからである。その後、オヒ頴超夫人も亡くなり、その遺骨と灰はすべて船から海河に撒かれた。

 周総理夫妻のゆかりの地に「周恩来オヒ頴超記念館」が開館したのは、周総理の生誕百年に当たる1998年のことだった。周総理は生前、自己を宣伝するようなことは厳しく禁じていたが、愛国主義と革命の伝統の教育基地として天津市が記念館の建設を申請し、党中央がこれを批准した。

 6万平方メートルの敷地に、7000平方メートル以上ある建物が建てられ、周総理夫妻の遺品7000余点が展示されている。中でも目を引くのは、周総理が若いころ、日本に留学した当時、撮影した写真や、ギネスブックに申請中の高さ8メートル、幅15メートルの巨大な手織りの絨毯などだ。日本からもすでに1万人以上が訪れ、周総理を偲んだ。

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 天津にはかつて日本租界もあったが、いまはほとんど消失している。しかし、日本企業の相次ぐ進出や日本からの留学生の増加で、日本への関心が高まっている。日本にとっても、急成長する直轄市、天津を無視することはできない時代になった。2004年3月号より