この数年来、中国では油絵のブームが起こっている。昨年開かれた第3回中国油絵展には、2000点を超す空前の応募作品が集まった。画家や美術学校の学生は増え、雨後の筍のように画廊がオープンしている。油絵を買って部屋に飾る人も多く、油絵はいまや中国の庶民の暮らしに入ってきた。

 中国の油絵の歴史は約百年。かつては、生産や建設をたたえる題材が多かったが、いまや題材の制約はない。精神の内面を鋭く描く作品も出現した。

 まだまだ荒削りなところもあるが、市場経済の発展の追い風を受けて、中国の画壇にはさまざまな作風の油絵が登場している。まさに百花斉放である。(文中敬称略)

(その1) なぜ油絵は人気なのか

 1987年末から1988年初めにかけ、第一回の中国油絵展が上海展覧館で開催された。このとき、全国各地から応募した作品はわずか406だった。それから16年後、北京の中国美術館で開かれた第3回中国油絵展には、第一次選考に全国から1万点以上の作品が集まった。油絵の創作に専念するプロの画家がふえ、美術学校は学生数を増やし、作品の質も多元化している。

画家村に集まる新人画家

新疆出身の画家、張鑑墻は、もっとも早く宋荘の画家村に来た一人だ

 中国の油絵画壇で、命がけで油絵と取り組んでいる画家のかなり多くは、フリーのプロの画家である。彼らはみな、それぞれ独自のやり方で、油絵への情熱を表現している。

 李西もそのうちの一人である。1968年、黒竜江省の片田舎の小さな町で生まれた彼は、4、5歳のころから油絵に興味を持った。他の子どもたちが庭で遊んでいるとき、李西は家の中で熱心に父親の描くデッサンや絵を見詰めていた。彼は、絵の具の匂いを嗅ぐのが大きな楽しみだった。

 その後、彼は補習クラスに入り、油絵を学び始めた。1988年、黒竜江省芸術学校に合格し、舞台美術デザインを学んだ。学校にいる間も、彼はずっと絵を描き続けた。卒業し、学校を去るときには、彼の描いた油絵だけで車一台が一杯になった。

 1994年、李西はそれまで勤めていた安定した仕事を捨て、北京にやって来た。そして郊外にある円明園の一角に住みついた。当時ここには、彼のようなプロの画家の集団が集まって住んでいた。

フリーのプロの画家、李西

 初めて北京に来た時、彼は生活のため、いつも絵を描きながらアルバイトをした。ときには16時間もぶっ続けに仕事をしなければならないこともあった。それでも毎月、せいぜい400元稼ぐだけで、そのうちの3分の1は家賃に消えた。

 1994年から今までに、彼は14回も引っ越した。塩水で野菜をゆで、素うどんをすするというのが彼の普段の食生活だった。しかし、生活がいかに苦しくとも、絵を描くことを毎日の生活から欠かすことはできなかった。あるときには3日続けて食事をしなかったが、それでも彼は絵筆を放そうとはしなかった。「あのころは、やや満足のいく作品が描けただけで、自分が王様になったように感じた」と彼は言う。

 生活は逼迫していたが、李西は終始、市場に迎合するために媚を売るような作品を描こうとはしなかった。彼の作品の中には、暗さや苦しみはまったくない。たとえ小さな草でさえ、生命への執着と生命の尊厳がきらめいている。彼は濃厚な色彩を用いて自己の強烈な内面の世界を表現した。人から理解されなくとも、「陽光と生命」という彼のメーンの題材を放棄しようとはしなかった。人は彼を「孤独なホトトギス」と呼んだ。ホトトギスは群れを作ることがないからである。

 だが、李西のようなプロの画家は決して少なくはない。北京郊外の宋荘の「画家村」には、一群の画家が集まって住んでいる。全国各地から来た彼らは、普段は農家の庭先で絵を描き、酒を飲み、雑談する。1994年にここができてからこれまでの10年間に、2、300人の画家がここに来たといわれる。5、600だという人もいるが、正確にはわからない。

油絵展の期間中、中国各地から美術評論家や油絵の画家、教育者が一堂に会し、中国の油絵に関して三日間のシンポジウムを開いた

 芸術に対する執着と追求が、画家たちをここに引き寄せた。生活の窮迫もまた、画家たちに生活するための別の道を探させた。現在、宋荘に次々に開設されている画廊が油絵を市場に出すチャンスを提供し、画家たちは新たな希望を見出した。

 宋荘の小堡村にもっとも早くやって来て、「古老」を自称する画家の張鑒墻によると、宋荘には現在、四軒の画廊があり、外資が投資する大型の画廊も現在建設中だという。「これがかなり多くの画家たちを救済し、それによって彼らはさらに熱心に、中国の油絵の創作活動を続けられるようになるだろう」と彼は言っている。

油絵学ぶ若者増える

中国美術家協会のキン尚誼主席(手前)や中国油絵学会の・建俊主席は(後方)は中国の油絵の発展に尽くしてきた

 中国の油絵について論じる場合、どうしても忘れることができないのは、中国で最初にできた油絵教育機関である中央美術学院(略称・美院)である。1950年に設立されて以来、中央美院は徐悲鴻、キン尚誼らの歴代院長の下、次々と優秀な人材を養成していった。現在、中国の油絵の世界で活躍している優秀な画家はほとんど、中央美院の薫陶を受けたといえる。また、中央美院に隣接する中央美院付属中学も、油絵画家を育てる揺り籠となっている。

 18歳の王宇は、内蒙古のフホホトからやって来た。彼女は美院の付属中学で、すでに3年以上生活している。中学校にあがったとき、彼女は遥か離れた北京に美院の付属中学があることを知り、そこは、自分の油絵への夢を実現する第一歩になると思った。

 小学生の時から絵を描いてきた彼女は、この目標の実現に向かって奮闘を始めた。当時、彼女は毎週3回、夜に40分も自転車に乗って、養成クラスに通い、絵を学んだ。それは2年以上、ずっと続けられた。

2000年に落成した中央美術学院の新校舎。その規模や設備は世界的水準に達している

 今後の専門については、彼女は迷うことなく油絵を選んだ。油絵は、国画(中国固有の絵画)に比べ、もっと人々に受け入れられやすく、また、強烈な色彩は人物の感情を表現するのに適している、と彼女は考えているからだ。

 しかし、すべての人が願い通りに希望を達成できるわけではない。北京にある多くの美術養成学校には、全国各地から多くの受験生が集まってきている。彼らが美院や美院付属中学に合格するまでには、北京で2、3年、滞在することが多い。また毎年、1万元の費用がかかり、このため多くの学生たちは、アルバイトをしながら学ばざるを得ない。

 美術を学ぼうという希望者の要望を満たすため、各種の美術養成クラスが雨後の筍のように出現した。美院の周辺だけで、70以上の大小とりまぜた美術養成センターがある。

 美院の募集定員は年を追って増えているが、受験者数も急激に増加している。2000年以前は、美院の定員は300人前後で、受験生は1000人近かった。しかし2003年には、定員は500人以上にまで増加したが、受験者総数は1700人を超えた。しかも油絵は、もっとも受験生の増加率が高い専門コースの一つとなっている。

美院の油絵学部は昔からある学部で、学生は三百人以上。厳しい美術の基礎教育を受けている

 油絵を学ぼうという学生の多くは、本当に芸術を追求しようとする者だ。だが、油絵の市場での比重が絶えず増加していることによって、一部の学生は油絵を将来の生活の良き手段と見なしている。美院教務処の責任者によると、この2年、大学生の就職状況はあまり楽観はできないが、油絵市場が活況を呈しているので、芸術関係の大学、とりわけ油絵専門コースは、入学希望者が殺到する人気のコースとなっているという。

 しかし実際は、油絵の道は、人々が考えているほど簡単なものではなく、みながみな、徐悲鴻のような油絵の大家になれるわけではないのである。

成熟し始めた中国の油絵

 60過ぎのベテラン画家であるナモ均は、80年代初め、大陸から台湾に行き、教師となったが、今回、とくにこの油絵展を見るために帰ってきた。出品された作品について彼は「びっくりした」と感想を述べた。

美院付属中学の生徒たちは冬休み前に、自分の作品を展示する会を開いた

 「変化はあまりにも大きい。私が北京を去る時は、油絵創作の題材は、工業や農業の建設を称えることに限られていた。画家は自由に、自分の描きたい題材やスタイルで描くことはできなかったのです。今回はまったく違う。都市であろうと農村であろうと、辺境の少数民族地区であろうと、あるいは画家の情感の世界でさえも、力強く、のびのびと、しかも十分に描かれている。絵の題材の角度から言えば、中国の油絵は本当の百花斉放の時代になったのです」と彼は言った。

 中国美術館の西北展示ホールのあまり目立たない隅に、25歳の広東の女流画家、陳子君が描いた『悪女十忙』があった。この絵は、選考の際に、もっとも議論のあった作品で、展覧会でも人々の議論の焦点になった。

 『悪女十忙』は、若い女性が洗面し、化粧し、タバコを吸うといった八つの生活のありさまを描いているが、その沈んで暗い色調や、抽象的でぼんやりした画面、はっきりしない主題のため、多くの人々の非難を引き起こし、「子どもが墨を塗りたくったようなものだ」と非難する人さえいた。

 しかし、中国美術家協会主席のキン尚誼は、この絵が現代の若い女性の生活状況を表現しており、社会に対する作者の考えを反映していると考えている。彼はまた、この絵が色使いや構図、造型の配置が非常に工夫されていて、芸術的にも鑑賞価値もかなり高く、この展覧会の数少ない佳作であるとしている。そしてこの絵が人々になかなか受け入れられないのは「伝統的な鑑賞の習慣と大いに関係がある」と述べている。

『悪女十忙』 陳子君 200cm×180cm

 第1回、第2回の油絵展と比べ、今回は一部の若い画家たちが、従来の伝統を破り、自分の個性を表現した作品を描いて、人々は耳目を一新した。と同時に、中国の油絵は、題材や表現形式だけでなく技法までも、模倣から創造に向かい、独自の特色を形成し始めたのだ。

 国画から油絵に転向した中年の画家、聶鴎はこの典型と言える。今回の展覧会に参加した彼女の作品『在郷村』は、国画特有の「写意」(形式に拘泥せず、精神の表現に重きを置く画法)の手法を油絵に取り入れ、芸術的造型の面でも伝統的な中国の特色を体現した。
 これについて中国油絵学会主席のユイ建俊はこう論評している。

 「中国の油絵芸術家は、古典からポスト・モダンまでの西洋の油絵が要求するものを基本的に理解し、掌握したあとで、はじめて自分独特の筆致を用いて内面の情感の世界を表現することができる。中国の油絵画家には自分の言語がある。また、この百年近い社会環境の変化にともなって、今日の中国の油絵はすでに民族的特色をかなり強く帯び始めた。まだ満足できないところも多いが、展覧会に参加した作品全体から見れば、水準は大幅に向上した」・(2004年4月号)