特集二       人と人とが築く中日友好

この60年、中国と日本の間に友好の橋を架けてきたのは、「人」である。多くの中国人と日本人の真剣な交流が、今日の友好関係を築いた。

抗日戦争に殉じた父、張自忠将軍

                           張廉雲 元北京市政治協商会議副主席

張廉雲さん(右端)が十四歳の時、従姉(中央)と父の張自忠(左端)とともに撮影された写真(張廉雲さん提供)

 60年前、抗日戦争が勝利したあの日、私はトラックに乗って重慶から成都に向かっていた。その途中、日本の降伏のニュースを聞いた。車中の人たちはみな、「我々は勝った」と歓呼の声を上げた。

 私は興奮し、また感慨無量でもあった。そして宋代の詩人、陸游の詩「示児(児に示す)」の一節を思い出した。

 王師北定中原日(王師 北のかた中原を定むる日)

 家祭毋忘告乃翁(家祭 乃翁に告ぐるを忘るることなかれ)

 私は黙々と、今は亡き父にこう言った。「パパ、抗日戦争は勝ちましたよ」

 父、張自忠は、性格がまっすぐな、国を愛する軍人であった。1933年3月、29軍の宋哲元軍長の指揮の下、父は河北省遵化の三屯営指揮所で、万里の長城を越えて侵攻してきた日本軍を攻撃し、阻止した。

 1940年5月、日本軍は湖北省の漢水の東岸を攻撃した。このとき、第33集団軍総司令官で上将だった父は、一部の部隊を率いて日本軍を遮断攻撃しようとした。しかし、十里長山の南瓜店で重囲に陥った。父は繰り返し突撃し、7発の弾丸を受けて、壮烈な犠牲となった。

 中国統帥部は、状況を詳しく知ったあと、父の遺体を、陪都である重慶に運び、荘重な国葬を挙行するよう命じた。棺が宜昌に着いたときには、10万の市民が知らせを聞いて葬式にかけつけた。上空には、敵機が飛来し、旋回したが、1人として逃げる者はなかった。

 戦後60年来、特に1972年の中日国交正常化後、両国関係は不断に発展した。

張廉雲さん(写真・楊振生)

 東京に大室登美子さんという女性がいる。彼女の父はかつて、日本軍兵士として、私の故郷である山東省臨清県を攻撃、占領した。彼は、我が家の中で、2人の子どもが写っている写真を見つけた。彼は、その写真をはがして持ち去った。

 その後、彼は負傷し、帰国した。その写真も日本に持ち帰った。臨終の前に彼は、娘の登美子さんに、その写真を張自忠の家族に返すよう言いつけた。そこで登美子さんは、ある中国人留学生に依頼した。紆余曲折を経て、写真はついに私の手元に送られてきた。

 その写真は、私の2人の甥の小さいころのものだった。そこで私は、成人した甥の写真を登美子さんに送った。それから私と登美子さんは手紙を交換するようになり、友人となった。

 50年来、我が家は中日友好の仕事に従事してきた。1953年に『人民中国』が創刊されてから、夫の車慕奇は編集長をつとめ、筆を用いて中日両国人民の相互理解と友好を促進した。1999年、彼が病気で他界した後、多くの日本の読者が手紙を寄せ、哀悼の念を表した。それによって私は心から慰められたのである。 (2005年8月号より)



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