特集二       人と人とが築く中日友好

大連で迎えた日本の敗戦

                                   劉徳有 元文化部副部長

1995年12月19日、訪日した中国科学院代表団の郭沫若団長(左)は、恩師の中山平次郎先生(右下)を訪ねた。中央は劉徳有氏(劉徳有氏提供)

 日本の敗戦を、私は大連で迎えた。

 中学2年のとき、勤労奉仕で、星ヶ浦近くにちっちゃな「戦車壕」を掘らされていた。8月15日の正午、最寄りの小学校に集められ「重大放送」を聞かされた。スピーカーからは雑音しか聞こえず、工事現場に戻って弁当を広げているところに、学校から戻ってきた級友の口から、日本の無条件降伏を知った。

 「小日本、これでお陀仏だ」と、心のなかで快哉を叫んだ。しかし、顔には出さなかった。まだ日本が武装解除されていなかったからだ。その日から学校に行くのをやめた。

 私は、「9・18」(いわゆる「満州事変」)のあった1931年に、日本の植民地、大連に生まれ、小学校から日本語を学ばされた。終戦になって、これからはもう二度と日本語を話さない、いやむしろ「話してやるものか」という気持ちが強かった。

 今から思うと幼稚な考えだが、偽らざる気持ちだった。また、戦後の日本の変化についても「為政者が米国の世界戦略に追随して、中国を敵視している」ことぐらいしか知らなかった。

 もちろん、日本軍国主義者と日本人民を分けて考えることもできなかった。身内の者が殺されたり、家を焼き払われたりした中国の大衆は、過去の日本侵略者の行為に反感を抱いていた。中国人は感情の切り替えが必要であった。私の場合、感情を最初にほぐしてくれたのは、毛沢東主席と周恩来総理だった。

 毛主席と周総理は早くから、中国の民衆に対し、広範な日本人民と一握りの軍国主義者を厳格に区別するよう、繰り返し教育した。

 1956年、北京で日本商品見本市が開かれた際、「日の丸」の掲揚が大問題となった。中国の民衆は、「『日の丸』を見ると、日本兵が村を襲って来たのを思い出す」といって、どうしても受けつけなかった。

劉徳有さん(写真・楊振生)

 周総理は「中日両国人民はともに日本軍国主義が発動した侵略戦争の被害者であり、日本人民には責任がない。日本人民は中国人民と仲良くしたいと望んでいる。今、中国も日本も、もはや過去の中国や日本ではない。新しい基礎の上に両国の友好関係を図らなければならない」と諄々と言い聞かせ、商品見本市を成功へと導いた。

 一方、日本側も、多くの人がまだ新中国の実情と内外政策をよく理解できないでいた。中国の指導者たちは、訪中した日本代表団に、きめこまかく説明した。特に周総理は、多くの日本の友人と深夜まで膝を交えて語り合うことがしばしばであった。仕事の関係で、その場に身を置くことができたのは、私にとって、この上ない幸せだった。

 以来50数年間、私は日本語を使って対日関係の仕事をしてきたが、21世紀に入った今後の中日関係を考える時、キーワードは「友好・協力・平和・発展」でなければならないと思っている。これは、中日両国人民の願いであり、目指すべき目標でもあろう。

 中日両国人民の努力によって両国関係は大きく発展してきたが、このところ揺れ動いている中日関係に、心ある人は誰もが心配をしている。要は、かつての日本による侵略戦争によって、中国とアジアの人々が受けた塗炭の苦しみを、日本の為政者が本当に反省しているかどうかである。それが問題のカギであろう。 (2005年8月号より)



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