■戦国時代に突入した自動車産業
特集2
群雄が鹿を逐う自動車市場


国内メーカーと外資が入り乱れ

北京ジープは、最初の中米合弁企業。中国がWTOに加盟した後、全国の自動車企業の中で、一番先に合弁契約を延長した完成車製造の企業である

  1982年、中国政府は、自動車産業の発展を加速するため、国内の自動車生産企業が外国の自動車メーカーとの合弁を発展させるよう奨励した。その結果、北京自動車製造廠と米国のアメリカン・モーターズ(AMC)による北京吉普(ジープ)自動車有限公司が成立し、1985年10月に新型の切諾基(チェロキー)の生産を始めた。それを皮切りに、外国の自動車メーカーは続々と中国に上陸してきた。
 
  現在、ドイツのフォルクスワーゲン、クライスラー・ベンツ、フランスのプジョー、シトロエン、米国のジェネラル・モーターズ、フォード、韓国の現代(ヒュンダイ)、日本のトヨタ、ホンダ、日産、マツダ、スズキなどが、長春、湖北、上海、北京、天津、重慶、広州、海南などで、中国の自動車生産企業と合弁で自動車生産基地を設立し、中国第一自動車集団公司(一汽)、東風自動車株式有限公司、上海自動車工業総公司の三大グループを形成している。

北京現代自動車が北京のタクシー業界に安く提供した乗用車。北京のタクシーの70%を占めている(北京現代自動車有限公司提供)

  さらに広州のホンダ、重慶の長安、安徽の奇瑞、瀋陽の華晨、南京の菲亜特(フィアット)と、浙江の吉利の6つの自動車メーカーがあり、「三プラス六」と呼ばれる乗用車産業構造を形成している。
 
  外資系企業の参入は、中国の自動車産業の急速な発展をもたらす主な要因の一つとなった。中国自動車工業協会の蒋雷・副会長は「2001年から、中国の自動車の年間生産台数は100万台前後の幅で増え続けてきた。2005年には年産約570万台に達した。そればかりでなく、過去5年間に、中国の自動車市場には、全部で101のメーカーの450以上の新車種が登場した」と言う。
 
  日本の野村総合研究所の予測によると、2010年には、中国の自動車生産台数は、981万台に達し、世界第二の自動車生産国になる、という。

北京のタクシー 七割が韓国車

北京現代の乗用車が、絶え間なく生産ラインから走り出てくる(北京現代自動車有限公司提供)

  2006年3月27日、赤い乗用車の雅紳特(アセント)が、生産ラインから走り出てきて、韓国現代自動車が北京と合作して生産した50万台目の車が誕生した。韓国人の盧載万・総経理は「40カ月の時間で、この水準に達したのは、海外にある韓国現代自動車の他の工場ではかつてないことだ」と感激して言った。
 
  北京と合作した3年前を振り返って盧総経理は言う。「あの時は、中国の自動車市場は、生産も販売も旺盛で、大きな吸引力があった。だから現代自動車は中国をもっとも需要な市場と位置付けた」
 
  しかし当時、ドイツ、米国、日本などの世界の巨大自動車メーカーがすでに中国に勢ぞろいしていた。実力のやや弱い現代自動車はどのようにして市場の一角を占めることができたのだろうか。

長春一汽トヨタ販売有限公司は、鋭志(RE-Z)の新車を売り出した

  ちょうど良いことに、当時、北京は自動車工業を都市の基幹産業にしようとしていた。そこで現代自動車は、「猛烈セールスマン」の異名を取る盧氏の部隊を派遣した。
 
  2002年10月、韓国の現代自動車と北京軽自動車工場が協力して、北京現代自動車有限公司が成立した。だが盧氏は、工場の中に雑草が繁茂しているのを見たとき、「成功するかどうか、確信が持てなかった」と言う。
 
  しかし、北京現代の乗用車、索納塔(ソナタ)が、2003年に発売された一年目に、販売台数が5万2000台に達するとは、盧氏には思いもよらぬことだった。生産開始したその年に利益が上がるというのは、奇跡であった。

  もっと多くの北京市民に、現代の乗用車の性能を肌身で感じてもらうため、現代は、2万台以上の乗用車をタクシー業界に安い価格で提供した。このため、現在、北京市内を走っているタクシーの7割は、北京現代の車である。

一汽トヨタ販売有限公司が天津で生産した乗用車、威馳(V-OS)

  同時に、北京市のサッカーチームのスポンサーに名前を連ねたり、SARSとたたかう医者や看護師に車を贈ったりして、北京現代自動車の知名度を高めた。そして2004年には一挙に、中国の自動車販売のベスト5になった。
 
  「中国の自動車産業は現在、まさに高速で発展する時期にある。北京現代は必ず、この機会をしっかりつかんで、中国で最大、最優秀、最強の自動車企業の一つに発展するよう努力している」と盧氏は言っている。

激しく追い上げる日本車

  1960年代から、トヨタが中国に輸出した乗用車、皇冠(クラウン)は、中国の人々に深い印象を残した。とりわけ広州では、長くタクシーとして使われ、市民に愛された。しかし、欧米の自動車メーカーが中国と合弁経営に乗り出したとき、トヨタはそうしなかった。

  1988年になってやっと、瀋陽で、中国企業と合弁で金杯ブランドのマイクロバスを生産した。このため、トヨタの中国での発展戦略はいかにも保守的であると、人々は感じた。
 
  しかし、1982年にトヨタの中国駐在首席代表をつとめ、現在は日中投資促進機構事務局長の嶋原信治氏は、こう考えている。

2004年9月、日本のトヨタと中国第一自動車集団は、ハイブリッドカーを合弁生産する契約を交わした(トヨタ自動車中国投資有限公司提供)

  「1980年に、トヨタは、外国企業として最初に、北京に、トヨタ自動車修理サービス部を設立した。トヨタが欧米の自動車企業に比べ、中国市場に参入するのがやや遅かったという問題については、ある程度の特殊性がある。日本の自動車メーカーにとっては、中国は日本と比較的近く、最初の選択は当然、完成車の輸出だった。しかし欧州の企業は中国と遠く、彼らは中国に、梃子となる支点を探す切迫した必要があった。そうすることではじめて発展することができた」
 
  しかし近年、中国の自動車市場でわずか2%前後のシェアしか占めていないトヨタは、瀋陽、広州、成都、天津などに相次いで自動車生産の基地を建設し、「後の雁が先」になろうとしている。
 
  広通トヨタ自動車販売公司は、北京最大のトヨタのディーラーである。ここで消費者は、緑の植物で飾りつけられた広いホールの中で、自分の好きなトヨタの乗用車を選んだり、気持ちのよい休憩室でコーヒーを飲みながらテレビを見たりすることができる。総経理の王友生さんはこう言う。

  「お得意さまのために行き届いたサービスを提供する――それが我々の販売の原則です。ここでは毎日、だいたい4、50のお得意さまを接待しますが、毎月の販売台数は100台前後で安定しています。そのうちの90%以上がマイカーです。これは、人々を満足させるトヨタのコスト・パフォーマンスのお蔭だと、私は思っています」

2002年10月25日、東風自動車公司とフランスのPSAプジョー・シトロエン集団は合弁生産を拡大し、売り出したプジョー206は、若い人たちの人気を呼んだ

  ところが2003年11月末、一貫してブランドイメージを重視してきたトヨタは、広告で大きなトラブルに遭遇した。新型のRV車を「覇道」と名づけて売り出したが、その広告は、二基の中国の石の獅子が、ごう然と進む「覇道」に敬礼をしているというものだった。これは、中国の人々の疑問と憤激を引き起こした。中国の伝統文化では、石の獅子は「正義と尊厳」を象徴し、「覇道」という言葉は「横暴、無道」を意味している。どうして「正義と尊厳」が「横暴、無道」に頭を下げるのか、というのである。
 
  これに対しトヨタは、12月4日、中国のメディアを通じ、中国の人々にお詫びをするとともに、車の名前を、もとの英語名の「PRADO」に改めた。
 
  一方、ホンダは、1998年に中国市場に参入したが、非常な速さで中国での現地生産を展開した。2000年末までに、年産3万台の能力を持つようになった。2001年に中日間に貿易摩擦が起こり、中国は日本からの輸入自動車に対し、100%の特別関税を上乗せして徴収した。しかしホンダは、かえって中国における年間生産能力を12万台に引き上げると発表した。
 
  現在、日本の自動車企業は、中国での投資規模や市場のシェアでは欧米企業に及ばない。自動車工業の大国としての日本は、中国市場での競争で先手を打つ機会を逸したが、現在の問題は、いかにして奮起して猛追するかにある。

先行したドイツとフランス

『中国汽車(自動車)報』の呉迎秋・副編集長(写真・沈暁寧)

  ドイツのフォルクスワーゲンは、中国の自動車市場で20年間、覇を称えている。その理由は多分に、天の時を得たためである。
 
  フォルクスワーゲンは1983年に早くも、上海自動車製造廠に桑塔納(サンタナ)の生産技術を移転し、速やかに大量生産を始めた。これによってサンタナは、十数年にわたって常によく売れたのだった。
 
  ドイツのフォルクスワーゲンと同時に中国市場に参入したのは、フランスのプジョーだった。しかし、その技術は保守的で、合弁相手の中国側の忠告を聞かず、長期にわたり、欧州の1970年代の車種を生産したので、販売は低迷した。1997年には、プジョーの累計赤字は29億元に達し、ついに1フランの価格で、所有しているすべての株式を広州自動車工業集団に譲り渡し、中国から撤退した。
 
  2004年、プジョーは、新たに態勢を立て直し、最新の技術と車種を持って、中国東風自動車株式有限公司と合作し、標致(プジョー)の新しいイメージを再びつくり上げた。

  こうした中国自動車市場の競争の現状に対して、『中国汽車(自動車)報』の呉迎秋・副編集長は「世界の自動車工業の発展は百年続いてきたが、その重心は、ドイツから始まり、東から西に向かってほとんど地球を一周し、現在は中国に移ってきた。中国で成功を勝ち得た者が、未来のグローバルな自動車市場の競争で戦略的勝利を獲得することができる」と述べている。(2006年8月号より)


 
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