高原=文 魯忠民=写真

  都市へ移住してきた人々の適応の問題に比較的早くから着目し、都市人類学の面から研究を続けてきた学者がいる。中国社会科学院民族学・人類学研究所の張継焦研究員である。著書には『都市への適応――移住者の就業と創業』がある。張研究員に、北京の「漂一族」についての分析を聞いた。

専門家インタビュー
「漂一族」を社会学的に分析する

張継焦研究員(写真・高原)

 ――1999年に『中国青年報』が初めて「北漂」という言葉で、地方から北京に夢を追ってやってくる若い芸術家たちを呼んだ。現在、この言葉の使用範囲は大いに拡大し、北京の外からやってきたサラリーマンや学生も自分を「北漂」と称している。あなたは「北漂」をどう定義しますか。

 張継焦研究員(以下、張と略す) 「北漂」は通俗的な言い方です。最初は、北京に「漂」してきた若い人が自嘲的に自らをこう呼んだのです。あたかも浮き草のように、遠く故郷を離れて北京に来て、生活が根無し草のように不安定なことを形容したのです。以前は、こうした人は非常に少なく、その中で芸術青年の割合がかなり多かったので、「北漂」と言えば、我々はこうした芸術青年を真っ先に連想したのです。

 現在、北京の外来人口は非常に膨大で、「北漂」の範囲も拡大しました。私は彼らを「北京へ来た移住者」と呼ぶのが良いと思います。つまり、北京の外で生まれ育ったが、今では北京で長く生活し、仕事をしている人ということです。彼らは、中国にいる多くの「都市外来人口」の一つの典型に過ぎません。

 ――いつごろから「都市の外来人口」は注目され始めたのでしょうか。

  1980年代末からです。ただし、当時、議論されたのは、大部分、マイナス面の問題でした。例えば、彼らが都市の秩序の混乱や交通渋滞、犯罪事件の多発、就業圧力の増大などを引き起こすのではないか、ということです。1996年からは、少し変わり始めました。現在、関心をもたれている焦点は、彼らがいかにして大都会の新たな環境に適応し、いかにして都市生活に溶け込むかという問題です。

 ――他の国々と比べて、中国の現在の「移住ブーム」は何か特別なところがありますか。

  経済の視点からは、何も特別なところはありません。ある国が、高速で発展する過程で、その国の大、中都市は必ずほかより先に発展します。大量の資金や技術、人材がここに集中します。みんなが、大都会にはより高い収入があり、より良い発展の前途があると聞いて、自然に大都会に集まってくるのです。

 もし、中国の現在の「移住ブーム」に特別なところがあるとするなら、それは中国の戸籍制度です。戸籍制度は一定の期間、人々が都市へ流動するのを制限してきました。しかし、このようにしても、さらに多くの人々が、制限を突破し、故郷を出て活路を求めました。

 そのうえ、現在、多くの地区で、戸籍制度が緩み始め、それによってこうした人口の流動がさらに必然の流れになっています。例えば、浙江省、山東省、広東省などでは試験的に、都市と農村の戸籍制度の統一が次第に実行され、まず省内の人口の自由流動という問題を解決しつつあります。

 ――こうした大規模な人口の移住は、どのようなプラスとマイナスの影響をもたらすでしょう。

北京で人気のチベット族のレストラン。少数民族の流入で、都市に多元的なぶんかがもたらされた

  たぶん、一部の犯罪事件が、都市の治安管理にいくらか圧力を与えるでしょう。しかし、それはほんのわずかな現象に過ぎません。全体から見れば、プラスの影響が多いと言えます。こうした外来人口は、都市に豊富な労働力資源を提供し、経済の発展を促進します。同時に、一部の新しいものをももたらします。例えば、チベット族、ウイグル族、朝鮮族の人たちは、彼らの民族的な飲食文化や服飾文化をもたらし、客観的に都市の文化の多元化を促進しました。

 ――都市に移住してきた人たちが、もとの家庭や交際範囲を離れて「漂」していると感じていますが、彼らはこの問題にいかに向き合うべきでしょうか。

  これは人生で必ず経なければならない一つの段階であると言わなければなりません。私は海南省で生まれ育ち、大学時代に初めて広州に行き、大都会でいろいろ適応できないことを経験しました。

 大学生でも出稼ぎ農民でも、若いときは外の世界を見てみたいと思うものです。ただ、現在は、社会の変化がかなり速く、そのうえ彼らは就職や居住、子どもの教育などの面で、都会人に比べ大きな困難と圧力に直面しているので、さまざまな不適応がもっと多いのでしょう。我々は、こうした「漂泊感」を大げさに誇張してきたのです。

 ――誇張?

  そうです。日本や多くの西側の国々にも、大量の人口流動があります。彼らは、人がどこで仕事し、生活するのも自由選択だと考えています。しかし中国は、数千年の歴史をもつ農業社会であり、歴史上、人口流動はほとんど、戦争や天災、あるいは強制的な移転によるものでした。現在のような、経済的な理由による自発的な移転は多くはありません。

 その原因は、「故郷、離れ難し」という伝統的な考えや、戸籍制度にあります。要するに、人々の生活環境はずっと、かなり安定していたのです。それが現在、突然、故郷から出て、根っこがなくなったのです。だから漂泊し、助けてくれる人もいないと感じ、しかも大げさに感じやすくなっているのです。

 ――都会の人たちは、こうした外来者をどう扱ってきましたか。

  大変複雑です。建国初期は、大中都市の発展を優先するために、中国は、外来人口の流入に多くの制限を加え、それによって都会の人は一種の優越感を持つようになりました。しかし、おおぜいの人々が、外から都市に来て就職することによって、都会の人はさまざまな競争や圧力を感じるようになりました。

 以前、私たちはみな、上海人は排外的だと言っていましたが、上海という都市が開放の度合いを深めるにつれて、こうした感情も次第に薄れてきました。しかし、北京では外来人口に対する制限はかなり多く、これは都市の発展にとって不利になっています。

 例えば、北京の戸籍がない大学生が北京で就職するには、大学の許可が必要で、勤め先が同意してはじめて北京の戸籍を取ることができる。それがなければ、割安な住宅を購入したり、国有銀行に車のローンを申請したりすることができないのです。

 いま、上海や深センはすでに、欧米の大都市の開放度に近づいているので、北京よりも多くの人材を吸収することは間違いないでしょう。だから私は、都市が開放に向かうのは、大きな趨勢であると思います。戸籍制度や制限的な政策を取りやめることも、必然的な趨勢です。その過程で、都市にもともと住んでいた人たちの外来者に対する態度も変わってゆくでしょう。

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メモ 中国の戸籍制度

 1958年1月、『中華人民共和国戸口(戸籍)登記条例』が公布され、中国政府は、人口の流動に対して厳格な制限と政府によるコントロールを始め、戸籍を「農業戸籍」と「非農業戸籍」に分けた。当時の経済条件の下では、この戸籍制度は生活必需品を配給するのに役立った。

 1997〜1998年には、農村から小さな町へ行き仕事をしたり、住宅を建築、購入したり、あるいは直系の親族が町に住んでいたりする人は、町の常住戸籍の登記手続きをとることができるようになり、戸籍制度は次第に緩和に向かった。

 2001年には、小さな町に常住する戸籍を申請する人に対して、計画的な目標を設定して管理することは今後、実行しないことになった。

 2004年以後は、上海、広東、浙江、山東などの経済が比較的発達している地区では、戸籍制度の改革が始まり、農村と都市の住民の戸籍を統一することが、大勢の赴くところとなった。(2006年9月号より)

 


 
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