都市の底辺支える農民工たち
特集2
 
苦闘の中にも希望がある

都市機能の不可欠な存在に

クレーンを指揮する張財進さん

 知らず知らずのうちに、農民工は、都市と切っても切れない関係になった。道路や建物の建設から都市の緑化まで、また野菜や新聞の販売、自転車の修理から廃品の回収、部屋の内装工事まで、農民工は欠くことができない存在になった。

 農民工が都市に入ってきたことによって、都市には新しい職業が出現した。例えば、病院で患者に付き添う看護助手、牛乳や水を家まで届ける配達労働者、家事をするパートタイマーなどである。

 しかし、農民工の生活状態は、思うようには改善されていない。ある調査によると、40%近い農民工が工事現場の小屋や農民工ばかりが集まって住む宿舎に住んでいる。部屋は狭くて、ぎゅう詰めだ。

 都市の住宅の値段は年々高くなっているため、多くの農民工が都市の周辺部の、農村との境に住むことを余儀なくされている。そこの環境や衛生状態はひどく、時には治安問題が発生する。

 20歳の張財進さんは、四川省の江油市から来た。2005年の春節(旧正月)が過ぎたばかりのころ、彼は父親や同じ県の多くの農民工たちといっしょに北京にやってきた。

 今は、ある工事現場でクレーンを指揮している。彼の父親は、別の工事現場で、大工として働いている。2006年から張さんの母親も北京に来て、レストランでウエートレスをしている。しかし、張さん一家三人は、いっしょに住んではいない。それぞれ自分の属する職場の宿舎で寝起きしている。

閻貽安さんは毎日、三輪車で廃品回収に回る

 だから3人はなかなか会えない。最後に会ったのは、張さんの父親の誕生日で、いっしょに王府井へ遊びに行った。

 「別々に住むのは、お金を節約するためだ」と張さんは率直に言った。「たとえ家を借りて住んでも、そこは私たちの家ではありません。故郷には私たちの家があり、おばあさんもいます。そここそ、私の家なのです」

 「家では父母に頼り、外へ出れば友人に頼る」という諺があるが、都市に出て来た農民工はたいてい同郷の人や親戚、友人に頼って仕事を紹介してもらい、住む場所を手配してもらう。

 都市での生活範囲も、だいたい親戚や同郷の人との付き合いに限られている。農村から来た人たち同士なので、互いに気持ちが通じやすく、プレッシャーも感じない。困ったことがあったら、同郷の人に相談したり、助けてもらったりする。

 毎年の春節の前後には、農民工の大群が、まるで渡り鳥のように故郷へ帰省する。このため、各地の鉄道と道路は異常なまでに混み合い、列車はひどく定員をオーバーし、駅には乗客が大勢に積み残される。これは中国社会の独特な光景である。

 この時期、都市の市民生活もかき乱される。お手伝いさんが帰省した後、パートタイマーもいない。露天の自転車修理屋もいなくなる。

 しかも、次々にやってくる農民工によって、都市のインフラや物資供給、住宅、交通、水、電気、燃料などは、ますます多くのプレッシャーを受けることになる。

根強く残る差別意識

住宅地区の住民と顔見知りの閻貽安さんは、家にまで廃品をとりに行く

 バスや地下鉄の中で、一部の市民は、同乗している農民工に対し、意識的に一定の距離を保つ。彼らの目には、農民工はタチが悪く、衛生観念が低く、その行動は都市の環境にはなじまいように映る。さらには農民工の流入が都市の犯罪の増加を引き起こしたと考える人さえいる。確かに農民工に対する心理的な蔑視が存在している。

 閻貽安さんの家は、安徽省六安県葉集鎮にある。1993年に、彼は従兄とともに北京に出て、廃品回収の仕事に就いた。都市の人々の差別に対して、閻さんは非常に敏感だ。

 「北京に来たばかりのころ、三輪車に乗って住宅地区を回りながら、大声で『廃品回収』と呼び声をあげると、『うるさい』と怒鳴られました。いまはできるだけ、こざっぱりした身なりをするようにしています。みんな、くず拾いを嫌がりますから。北京に来てからすでに5回も引っ越しをしました。環境を汚すから出て行くように言われたためです」

 閻さんは、母親が早く亡くなったため、家の暮らしは、以前は父親一人が支えてきた。今は、二人の姉がともに嫁に行き、彼は唯一の男の子として家の大黒柱になった。もともと彼の故郷は人口が多く土地が狭い。しかもその耕地も、町の発展のために収用されてしまった。だから家族の生計はすべて、閻さんが北京で廃品回収して稼いだ収入で維持されている。

四川省の農村から来た何登兵さん(31歳)は、出稼ぎ歴15年。現在、北京の中央テレビ局の新築工事現場で鉄筋工班の班長をしている

 現在、彼はある住宅地区に廃品回収スポットを置き、住民たちとの関係も比較的よい。どの家からでも一声掛けられれば、彼はすぐその家に出向いて、廃品を階下まで運ぶ。

 2年前、閻さんは10万元をかけて、故郷に六部屋の大きな瓦葺きの家を建てた。80歳の父親はにこにこしながら、古びた茅葺きの家から引っ越した。

 中国の多くの農村で、新築の家を建てた農家があれば必ず、家族の中に出稼ぎに行っている人がいる、という現象が見られる。社会学者の分析によると、出稼ぎに行った農民工のうち、少なくとも70%の人が家に送金している。この比率は、他の発展途上国より高い。農民工たちからの送金は、彼らの家庭を支えるとともに、農村経済の発展をも促している。

新世代の新しい考え方

何さんの妻も北京で働いている。彼らの二人の子どもは、郷里の農村で祖父と祖母が世話をしている

 都市で視野を広げ、技術を習得する機会を得た農民工たちは、知らず知らずのうちに個人の素質やものの考え方を変えている。とくに田舎で中学、高校を卒業した若い人たちにとって、お金を稼ぐことはもはや、出稼ぎの唯一の目的ではなくなった。都市に根を下ろし、今の暮らしを変えようとし始めた。

 27歳の劉敏さんは2000年に中等専門学校を卒業し、山東省イ坊市から北京にやってきた。ウエートレスやレジスター、パートを経験し、さらに売り場を借りて服装の商売をしたこともある。次から次に転職したけれども、彼女はがんばって勉強を続けた。そして2005年、劉さんは試験に合格し、会計士の資格を取った。それである会社で出納係りの新しい仕事を見つけた。

 昨年、劉さんは中等専門学校時代のクラスメートと結婚した。2人は北京で家を借りて所帯を持った。彼女は引き続き、上級の会計士の国家資格試験に挑戦し、ほかの能力も身につけようと思っている。少し前には、運転免許の試験に受かった。「私は自分の能力をもっと高めて、もっと多くのことができるようになりたい。将来は北京に留まって生活したい」と劉さんは言った。

 一部の若い農民工は、伝統的な農村の「家」に対する意識を変えた。26歳のミャオ族の若者、夏俊さんは、貴州省安順市の出身である。郷里の技術専門学校を卒業して、北京の建築会社へ出稼ぎにやってきた。北京で、夏さんは恋人を見つけた。山東省臨沂市から来た女の子だった。

劉敏さんは現在、会社の出納係りをしている

 2人は今年、結婚するつもりだが、夏さんは「結婚式は山東で行い、その後、貴州に遊びに行って、北京に戻って家を借りて暮らそうと思っている」と言っている。だが将来、どこで家を構えるかについて、夏さんはまだはっきりと決めてはいない。

 「北京の気候はすごく乾燥しているし、住宅の値段も高い。貴州は山東からあまりに遠く、彼女は貴州に住みたくない。私も山東の農村に行きたくない。だから湖北省の武漢あたりがよいかも知れない。山も川もあるし、地理位置にも、貴州と山東の中間にあるからね。どこかに住んでもそこで仕事を探します。たぶん将来は、自分で小さな工事を請負うか、あるいは小さな料理屋を開くかできればよいと思っています」

 彼らは2人とも農村に帰ろうとは思っていないし、たとえ帰っても、農民になるつもりはない。「私は畑仕事などしたことがありませんから」と夏さんは言って笑った。    

改善された教育問題

陳立彬さん一家は一部屋の平屋を借りて、みんないっしょに暮らしている

 戸籍制度制限の緩和につれて、一部の農民工は、子どもをそばに置いて育て、家族全員で都市で暮らしている。こうすれば家庭の温もりもあるし、帰省の費用も節約できる。

 陳立彬さんは河南省周口市の出身で、北京に来てもう十数年になる。「最初、北京に来たときは独り者だったが、いまは妻と子どもの大所帯になったよ」と陳さんは冗談を言った。

 陳さんは北京で、果物の商売をしている。毎朝5時に卸売市場で果物を仕入れ、妻の秦玉玲さんが屋台で果物を売る。毎日忙しく働いて、夜11時か12時になってやっと店じまいする。

 家族5人は住宅地のわきにある15平方メートルの小さな平屋を借りてぎゅう詰めで暮らしている。こんな狭い部屋でも、一カ月に700元の家賃を払わなければならない。それに水道代や光熱費、屋台の借り賃を加えると、出費は少なくない。

 陳さんには息子が2人、娘が1人いる。長男は14歳、次男は13歳で、娘は11歳。子どもたちは郷里で小学校3年まで学び、その後、北京に連れてきた。「去年の夏休みに娘を迎えたとき、私たちのことを忘れてしまい、『父さん』とも『母さん』と呼んでくれなかった。本当に悲しかった」と秦さんは言った。

陳立彬さんの妻の秦玉玲さん(右)は、露天で果物を売っている

 農村の子どもを都市の学校に入れるには、「賛助金」という名のお金を支払わなければならない。農民工は子どもを郷里の学校に通わせるは、「賛助金」が払えないからだ。

 都市の教育体制は依然として、昔ながらの戸籍の管理に基づき、義務教育経費は戸籍の所在地の人口数によって交付される。その土地に戸籍のない子どもたちがそこの学校へ行く場合は、かなりの額の「賛助金」や「借読費」(ほかの学校でしばらく勉強する費用)を納めなければならない。こうした費用を、余裕のない農民工たちはとても負担できない。

 1980年代から、農村では「留守児童」と呼ばれる子どもたちが現れてきた。こうした子どもは、両親が出稼ぎに行き、郷里で祖父母たちと生活している。多くの子どもは生活が貧しく、教育的環境や親の愛情が乏しい。両親と遠く離れて暮らしていることが、彼らの心に大きな心理的悪影響をもたらしている。

 こうした現状をできるだけ改善するために、1998年から、政府は、公民が個人で、出稼ぎ労働者の児童専門の学校を開くことを認めるようになった。このような学校はほとんど、農民工が自分が建てたものである。学校は農民工が多く住んでいる場所に建てられ、学費が安い。だが一部の学校は、教育レベルが低く、教育条件や環境衛生が悪く、安全面でも目に見えない危険がある学校もある。

3人の子どもが北京で学校に通うことができたので、陳立彬さんは喜んでいる

 2003年から教育部は、出稼ぎ労働者の子どもも、都市の子どもと同様に公立学校へ通えるよう、各地の政府に対し措置を取るように求めた。北京市政府の規定によれば、農民工の子どもは公立学校に入った後、北京の子どもと同じように、教育経費の交付を受けることができる。

 こうした政策の結果、陳さんの3人の子どもは、北京の公立小学校に入学できたのだった。現在、陳さん夫婦がもっとも気にしているのは、子どもたちの成績である。農村から転入学した後、子どもたちは学校の勉強についていけなかったので、1年、留年するほかはなかった。陳さんは、暇を見つけてはできるだけ子どもたちに勉強するよう励ましている。妻の秦さんは「私たちが2年続けて春節に故郷に帰らなかったのは、お金を節約して、子どもたちを北京の中学校へ行かせるためです」と言った。

 子どもは陳さん一家の希望である。すでに数年前に、陳さんは郷里に五部屋の新しい家を建てたが、子どもたちを北京であと数年、勉強させたいと望んでいる。

データ
農民工の意識と実態  (国務院研究室が公布した『中国農民工調査研究報告』による)

 ▽都市で働く農民工は約1億2000万人だが、郷鎮企業で働く農村労働力も含めるとその総数は約2億人になる。

 ▽全国の農民工のうち、16〜30歳の人は61%、31〜40歳の人は23%、41歳以上の人は16%。平均年齢は28.6歳。また、男性と女性はそれぞれ66.3%、33.7%。中学校卒業程度の人は66%。

 ▽農民工のうち、少しお金を蓄えたあと家に帰りたいと思っている人は39.07%、長期的に都市で働きたいと思っている人は8.13%、仕事の状況を見て決めると考えている人は37.48%、一定の経験を積んだ後、ほかの都市へ働きに行きたいと思っている人は15.32%。

 ▽毎年、農民工によって家にもたらされた膨大な現金は、農業生産に必要なものを買い、生活条件を改善し、農村を発展させる重要なリソースとなっている。専門家の推計によれば、現在、農民工100人ごとに4人が故郷へ帰り、自ら創業する道を歩んだ。(2007年3月号より)



 
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