名作のセリフで学ぶ中国語G

 

愛にかける橋
(芬ニー的微笑)
 
監督・胡メイ(フー・メイ)
2002年 中国・オーストリア 118分
2002年モントリオール国際映画祭正式出品
2003年ベルリン国際映画祭正式出品

 


あらすじ

 1930年代。ウィーンの警察学校に留学した馬雲龍(王志文)は、教官の娘ファニー(ニーナ・プロル)と愛し合い、1年後ファニーは父親の反対を押し切って遠い異国の中国へと嫁いでいく。それから60年、国民党から共産党へと政権が移り変わり、国民党の警官学校の教務主任だった馬雲龍は何度も労働思想改造にやられ、姑と4人の子供の生活はファニー1人の肩に重くのしかかるが、2人の愛情は馬の死まで変わることなく続く。晩年のファニーはウィーンから訪ねてきた親友の孫娘に、「もう一度生まれ変わっても雲龍のいる所ならどこまでもついていく」と語るのだった。

◆解説

 実話である。女性プロデューサーであり脚本家の王浙濱が、中央電視台のドキュメンタリー番組で、ワグナー夫人という中国在住の女性の存在を知ったことが映画化のきっかけ。一方、オーストリアでも前オーストリア駐中国大使夫人のウスラ・ワルツ女史が、この女性の生涯を映画化しようと奔走していた。北京で国際婦人会議が行われたのを記念してウィーンに招待された中国の女性監督に、この映画の監督を呼びかける。当初、『画魂』の黄蜀芹監督にオファーしたのだが、紆余曲折があり、結局『戦争を遠く離れて』の胡テオ監督がメガホンを執ることになった。何と中国とオーストリアの合作は、新中国誕生以前の費穆監督の『世界児女』以来70年ぶりだという。女性プロデューサーに女性シナリオ作家、そして女性監督という中国でも珍しい女性映画となった。

 彼女が中国に残り続けたのは、オーストリアも動乱の時代でそう簡単には帰れないという時代の状況もあったとはいえ、夫への強い愛情があったがゆえに困難に耐え忍んで中国に残り続けたのだろう。ただ、その愛情ゆえに他のことはすべてシャットアウトしてしまう、いかにもゲルマン民族らしい頑迷さ(監督談)があったことも事実。この映画を見て思い出したのは、満洲傀儡帝国の総理大臣鄭子胥の次男に嫁いだ日本人女性のこと。やはり日本留学中に知り合い、30年代に"新京"に嫁ぎ、やがて北京で暮らすが新中国誕生前夜に夫と娘を残して1人帰国し、その後二度と中国に行くことはなく、やがて進駐軍のアメリカ人と結婚してアメリカに渡り、成長した娘をアメリカに呼び寄せている。双方の生き方を比べるのはなかなか興味深い。なお、ヒロインのモデル、ワグナー夫人は映画のプレミアの前日に83才で作品を見ることなく、亡くなったそうだ。

◆見どころ

 実在のモデルが嫁いだのは浙江省だったそうだが、映画では安徽省イ県で撮影された。ここは実は数々の中国映画が撮られた名所で、張芸謀の『菊豆』、李安の『グリーン・デスティニー』、最近では霍建起の『暖』もここで撮られている。白壁に黒い屋根の清朝時代の建物の街並みが美しく、絵になる場所である。撮影前には町の近くの川に長い木造の橋がかけられた。若き日の2人がウィーンで牽牛と織姫の伝説を語り合い愛を誓い、文化や風俗習慣の違いを乗り越えて愛し続けたことを象徴する架け橋だ。ファニーは夫の家に嫁いだ時も、文化大革命中、監禁された夫を訪ねる時も、夫の野辺送りの時にもこの橋を渡る。結構流れが急な川で橋を架けるのは苦労したそうだが、それまで橋がなかったために迂回しなければならなかった地元民に重宝がられたそうだ。その後、撮られた『暖』に出てきた橋もおそらくこの橋ではないかと思う。

 実はこの映画は当初ファニー役に中国でも人気のソフィー・マルソーを予定しており、本人からも快諾を得ていたのに、オーストリア側から彼女は絶対にオーストリア人には見えないと大反対されて、オーストリアの新人女優ニーナ・プロルが抜擢されたのだそうだ。確かにフランス人にウィーン娘を演じさせればヨーロッパの人が見れば不自然なのだろうが、そこまでリアリティにこだわるのなら、ウィーンでのシーンとファニーと馬や子供たち、親友の孫娘との会話はやはりドイツ語にして欲しかったと思う。(2004年8月号より)