名作のセリフで学ぶ中国語O

 

雲の南へ(雲的南方)
 
監督・朱文(チュウ・ウェン)
2003年 中国 100分
第5回東京フィルメックス2004
コンペティション作品

 


あらすじ

 徐大勤は東北の都市に住む、工場の総務課を退職したばかりの男。妻を早くに亡くし、男手1つで息子2人と娘を育ててきたが、息子たち夫婦はリストラの波にさらされ、食費や教育費を父親に頼っている。エアロビのインストラクターの末娘は、父親に退職金を自分に投資してダイエット教室を開きたいと言う。味気ない日々の唯一の夢は若い頃に行くチャンスがありながら、とうとう果たせないでいた雲南に行くこと。こんな苦しい時期に勝手だと子供たちに責められながらも、とうとう1人で雲南に出かける。

 雲南で徐は西安からセールスに来て、そのままいついてしまったという黄という男に案内されて、かつて自分が赴任したかもしれない工場などを訪ね歩く。女人国と呼ばれる湖に行った徐は長年のかしこまった心を解放するような不思議な夢を見る。しかし、売春婦に同情して金を渡しているところを見つかり、買春の容疑で捕まってしまう。同年輩の退職間近の署長は徐に同情しながらも、相手の売春婦を捕まえるまではどこにも行かないようにとホテルに禁足を命じる。ホテルのコック長と菜園で野菜を摘みながら、野外で料理して食べた徐は、ついに心が解放されて、喜びの涙を流すのだった。

見どころ

 『至福のとき』撮影直後に癌に倒れた李雪健の復帰第1作だ。実年齢よりずいぶん老けた役どころながら元気な姿と、相変わらずの地味渋演技にほっとした。それにしても、李雪健といい、署長を演じた田壮壮といい、実際はまだ50を過ぎたばかりなのに、孫の世話だけが楽しみだなどとしみじみと語り合うシーンが笑える。

 この映画の登場人物たちの淡々とした台詞のやりとりはどうも覚えがあるぞと思ったら、監督の朱文は、章明の『沈む街』、張元の『ただいま』の脚本家だった。この人の台本にはいかにも作られたような台詞を徹底的に排除した不思議な味わいがある。もともとは作家なので、中国映画によくありがちな臭い台詞は彼の感性が許さないのだろう。

 それにしても映画はどうも言いたいことを言い足りていないような気がする。もっと深遠な何かを言わんとしていることは分かるのだが、表現しきれていないのが非常に残念だ。




解説

 「文革」をはさんで上と下の世代とでは、その人生は同じ国の人間とは思えないほどに異なる。住む所も就職も国に決められた上の世代と、それらが自分で選択できるようになった世代とでは、生き方も人生観もまるで違う。徐大勤は前者の典型で、結婚だって決して自分の自由にはならなかった。恋愛イコール結婚はまだしも、相手にちょっと好意を示しただけで責任を取らなければならなかったのである。

 結婚して子供が出来てからは、自分を犠牲にして子供を無事育てることだけが生きる目標であり、定年まで1つの職場で無事勤めあげ、退職後は孫の世話をすることだけが人生のすべてだった。徐大勤もまたそうした人生を当然と思いつつ生きながらも、心の中では、若い時に雲南に赴任していたら、もしかしたら自分の人生は違ったものになっていたかもしれないと思い続け、その思いが雲南への絶ちがたい憧れとなっていた。東北の寒気に閉ざされた灰色の町で思い続ける雲南はどれほど美しい所であったろう。

 こうした50代以降の大多数の中国人の心情に思いを寄せて映画化した作品がこれまであっただろうか。猛烈な勢いで発展する今の中国に置き去りにされた人々の心の襞に寄り添うような作品を撮ったのが、1967年生まれの監督であることに、中国もまだ救いの余地があるなあとしみじみと感じさせて、温かい気持ちになる作品である。(写真提供・新電影雑誌社)(2005年4月号より)

水野衛子 (みずのえいこ)
中国映画字幕翻訳業。1958年東京生まれ。慶応義塾大学文学部文学科中国文学専攻卒。字幕翻訳以外に『中国大女優恋の自白録』(文藝春秋社刊)、『中華電影的中国語』『中華電影的北京語』(いずれもキネマ旬報社刊)などの翻訳・著書がある。

 







 
 






 
   
     
 
 
     
   
     
     
   

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