【画家たちの20 世紀(4)】


中国絵画の改革を推進 徐悲鴻

                      文・魯忠民


『我が后をまつ』
318×230cm  油彩 1933年
徐悲鴻記念館
写真提供・中国油画研究学会

 徐悲鴻は、中国の近代美術に大きな影響を与えた人物だ。1895年、江蘇省宜興うまれ。祖父は村で仕立てをしながら田畑を耕し、父は独学で絵を学ぶ傍ら、瓜を栽培し、私塾を開いていた。その後、洪水のために一家の生活が困窮し、徐悲鴻は父に従い、絵を売って生計をたてるようになった。のちには、彭城中学校の美術教師となった。

 1917年、絵を売って得た資金で日本に留学。留学中は、毎日博物館や個人宅に通いつめ、様々な絵を鑑賞した。その後北京に戻り、北京大学画法研究会の講師となった。1919年、国費留学生としてフランス、パリの高等美術学校に入学。歴史画家のフェルナンの指導を受けた。在欧期間には、ドイツでも2年間学び、ベルリン美術学院院長のカンボフにつき、毎日十時間以上、絵を描き続けた。留学期間は八年におよび、画業のほかに、イギリス、イタリア、スイス、ベルギーなどへも出かけ、古今の名作に親しんだ。1927年、帰国後は、上海南国芸術学院、北平(北京の旧名)芸術学院の教鞭をとった。在職中には、中国絵画の改革および教授法の改革、特に西洋画の優れた技法を取り入れるよう提唱した。そして教育の過程では、基本的技法の修練を厳しく要求し、非現実的な画風に反対するとともに、形式主義的な絵画を否定した。

 抗日戦争の期間には、重慶の中央大学芸術学部の教授となり、中国美術学院の開校準備にもあたった。1940年、インドの詩聖、タゴールの招きに応じてインドを訪問、講演と個展を行った。

 1941年、日本軍はパールハーバーに奇襲攻撃をかけ、シンガポールを占領した。徐悲鴻は、やむを得ず、アメリカでの個展のために準備していた40点あまりの作品を井戸の底に隠した。のちそれらの作品は手元に戻らず、数十年の血と汗の結晶は無に帰した。抗日戦争勝利ののち、1946年、彼は北京に赴き、北平芸術専門学校の校長となった。

 1949年7月、新中国の建国直前、中華全国文芸工作者代表大会では、中華全国美術工作者協会主席に選ばれた。徐悲鴻は、それまでに国旗、国章、それに国歌の制定に積極的に関わっていた。最終的に国歌に決まった『義勇軍行進曲』は、彼の提案によるものである。1950年、中央美術学院の初代院長に就任。1954年9月26日、脳溢血のために世を去る。一周忌には、徐悲鴻記念館が建てられた。そこには彼が後世のために残した、約千点の作品のほか、唐、宋、元、明、清および近代の書画千点あまり、それに書籍、画集、写真、碑帖など約一万点が収蔵された。

 1931年、「九・一八事変」をきっかけに、日本軍は中国の東北三省に侵入した。蒋介石の「絶対不抵抗」の命令により、東北三省はやすやすと日本軍に占領された。

 民族滅亡の危機に際し憤懣やるかたない彼は、作品の構想を練り、1933年、『我が后をまつ』を完成させた。作品は『書経』から題材をとったもので、商(殷)の湯王が兵を率いて暴君、夏の桀王を倒す日を人民たちが待ち望む様子を描いたものだ。聡明な指導者によって救われる日を渇望する人民の姿には、不抵抗政策に対する画家の激しい怒りが表現されている。 (2001年4月号より)