民間の文化遺産を訪ねて 魯忠民=文・写真
 
 
 

重慶・梁平の紙漉きと「三絶」
危機に立つ伝統文化 保存の努力続く
 
糸状の竹を織機にかけて竹簾を作る
 
 
 
竹の海に囲まれた梁平県竹山鎮の小さな村落
梁平県は、重慶市の市街区と三峡ダム区の中間にある。ここの清らかな山水は竹林を育み、竹林は紙漉きを育んだ。さらに「梁平三絶」と称えられる「梁山灯戯(芝居)」「梁平竹簾画」「梁平年画」を生んだ。しかし、こうした民間の伝統工芸や芸術は、時代の波におされて絶滅の危機に瀕している。伝統の灯を消さないよう、人々の努力が続いている。
 

竹で作られる梁平紙

梁平の紙造りの手順
 
(左)端午の節句の前後に竹を切り、若い竹を選んで30aほどにし、叩いて平たくし梱包し、石灰の池に入れて浸し三カ月後に熟成して紙の「原料」ができる (右)石の槽に入れられた竹の「原料」は、職人が足で踏んで、泥状の原料を作る

 
(左)泥状の原料をシャベルで大きな水槽に入れ、攪拌したあと、筋や滓を取り除き、純粋なパルプを残す (右)紙漉き。{すのこ}簀で用いて大水槽のパルプ原料を漉き、水を切ったあと、簀に残ったものが薄い紙になる

紙貼り。簀から紙をはがして木枠の上に紙を貼る

 
(左)上に板や木の棒を置き、テコの原理を使って圧力をかけ、積み上げた紙の水分を除く (右)紙あぶり。紙をあぶる職人は、紙をはがして、熱した壁に貼り付け、刷毛で平らにする。紙が乾いた後、百枚ずつ重ねて端を切りそろえ、最後に十束ずつ梱包して完成する 

 紙は中国の古代四大発明の一つである。梁平県の山村では、今なお、後漢(25〜220年)の時代に蔡倫が発明した技術を使った伝統的な紙造りの方法で、紙が造られている。

 梁平県は、面積1890平方キロ、人口88万人。昔は巴国の一部で梁山と呼ばれ、1400年余りの歴史を持つ。同県竹山鎮は、海のように広がる竹林の真ん中にあり、青々と茂った竹林が、連なる山並みを覆い尽くしている。秋の収穫の頃には、農民たちは忙しく働く。80歳、90歳の老人が非常に多く、彼らも元気に穀物を干している。竹林が広がり、空気が新鮮なので、長寿の里になったのだろう。

 この地の人々の生活と習俗は、竹と密接不可分である。家の垣根は刺竹で造られているし、部屋の中の椅子やテーブル、農具も竹で作られ、山の湧き水を各戸へ引く管も、節を抜いた竹の筒でできている。

 鎮の中にある製紙工房はどれもみな、まだ操業を始めていない。ただ四軒の家が共同で経営する一つの製紙工房だけが、手間仕事で忙しく紙を作っている。古びた作業場には、四つの水槽設備がある。地元の人々はここを「槽廠」と呼んでいる。

 一つの槽には5人の職人がついていて、細かく分業して働いている。原料を準備し足で踏む係り、液をすくって紙にする係りがそれぞれ一人、紙を貼り、あぶる係りが二人、さらに一人の雑役の見習がいる。

 梁平で造られる紙は「2元紙」と呼ばれる。主に亡くなった人を供養するための「紙銭」に使われるが、文字を書いたり、梁平の年画を刷ったりするのにも使われる。

 昔は鎮に観音廟があり、真ん中に観音を、左側に蔡倫を祭っていた。紙漉きにたずさわる人たちは、今でも蔡倫を紙造りの開祖として敬い、どの家も蔡倫の位牌を祭っている。

 史書の記載によると、竹を原料とする梁平の紙造りは、元(1271〜1368年)の時代から始まった。その紙の質は、有名な安徽の宣紙に次いで良く、価格は宣紙の三分の一にもならないので、全国的に人気を博した。そのため、紙商人が梁平に集まってきて、屏錦などの古い鎮ができ、発展し、大小さまざまな紙屋と宿屋ができ、明(1368〜1644年)の時代に最盛期を迎えた。

 『梁平県志』の記載によると、1939年には、梁平には手工業の紙漉き職人が5万人以上いたという。また、1990年代の初めまで、竹山鎮のほとんどすべての家が紙漉きをしていて、紙造りが非常に盛んであった。

 しかし1993年ごろ、梁平県は機械による製紙工場を建てたので、安くて質の良い製品がたちまち手工業の工房を打ち負かし、無数の「槽廠」が倒産してしまった。その後、環境汚染の問題で、小さな工房は次々に閉鎖された。手作業による紙漉きの輝かしい歴史は、幕を閉じようとしている。

 紙造りの衰退に直面して、関係部門は現在、一部の紙漉き工房を重点的に保護し、観光スポットとして開発して観光客に梁平の紙造りの生産工程を見せようとしている。

復活の模索が続く「梁平三絶」

 「梁平三絶」とは「梁平にしかないもの」という意味である。「三絶」すなわち「梁平年画」「梁平竹簾画」「梁山灯戯」は、いずれも竹と関係がある。

梁平の伝統的な木版画の作品『四郎探母』

 【年画】梁平の紙を使った木版の年画は、300年余りの歴史がある。20世紀初期、梁平には30余軒の年画工房があった。1940年代には、その生産量は数百万枚に達し、アジア諸国や欧米にも売られていた。

 年画は、吉祥富貴や魔除けなどが主なテーマで、「四季平安」や「刀や斧を持つ門神」などを画題としている。年画の構図は、さまざまなものが詰まっていて、形は誇張され、造型は飾り気がなく素朴だ。色彩の対比は強烈で、燃えるような赤と濃い緑によって目出度さを表している。金粉、銀粉を使って印刷された門神の年画は、その画面がさらに華やかである。

莫紹萍先生は、小学生に年画の描き方を指導している

 しかし「文革」中、梁平の年画は「四旧」と見なされた。「四旧」とは、古い思想、文化、風俗、習慣を指し、これを打破しようと呼びかけられた。このため梁平の年画は、絶滅の危機に瀕した。

 「文革」が終わり、1970、80年代になって、梁平の年画は新しい年画が創作され、毎年、40〜50幅の新作が生まれるようになった。小学校の美術の先生をしている劉勇さんは、このときに梁平年画と出会った。

 しかし、近代化の歩みが加速する中で、民間の伝統工芸は大きな打撃を受けた。木版の年画は数十年も前からもはや印刷されていない。現在、木版年画を彫れる職人で、なお健在な人は一人しか残っていない。彼は屏錦鎮に住んでいる彫板工で、多くの版木を彫ってきたが、すでに80歳になり、耳も遠い。

梁平の新しい年画『過年』(劉勇作)

 衰退する木版年画の現状に、劉さんは気が気でなく、ずっと梁平の木版年画の緊急救助を呼びかけて奔走してきた。最近、劉さんにとって嬉しかったのは、彼の呼びかけに応えて梁平県が、劉さんの編纂した梁平木版年画を中学の教材に組み入れたことである。

 小学校の副校長をしている莫紹萍さんは、自分もアマチュアで新しい年画の創作をしながら、小学生に年画を描く指導をしており、梁平年画を後世に伝えたいと願っている。

 劉さんの紹介で、2003年に重慶美術学院が梁平をベースに、梁平年画を重点的に研究調査した。そしてメディアの報道や専門家の呼びかけで、梁平年画は再び注目を集めるようになった。梁平に来て年画を仕入れに来る人も出てきて、民間芸術の復活に曙光が射してきた。

伝統的な竹簾画の作品

 【竹簾画】梁平の竹簾画も中国の特産の一つで、千年を超す歴史がある。史書の記載によると、梁平竹簾は北宋(960〜1126年)の時代、皇室への献上品となり、「天下第一の簾」といわれた。

 竹簾画は、「産毛のように細く、糸のように密である」と称される竹の簾の上に絵を描いたものである。竹簾は慈孝竹を素材とし、滑らかで光沢のあるきわめて細い竹の糸を横糸に、生糸を縦糸に使って伝統的な紡織機で編んで作る。

 その竹簾の上に山水や人物、花卉などの中国画や書を描き、さらに刺繍や植毛などの表現方法を用いて、美しい壁飾りや門に掛ける簾、蚊帳などの装飾工芸品を制作する。

 竹簾は、すべすべして柔らかく編まれていて、上に絵や字を描くときには、伝統的な宣紙に描くような感じだ。そのため竹簾画は、絵に込められた詩情や東洋の色彩感覚を持つものになっている。

竹簾の上に絵画あるいは書を描き、表装すれば竹簾画ができあがる

 新中国成立後、竹簾画は大いに発展した。人々に珍重されたばかりでなく、国家からのプレゼントとして外国の友人や政府首脳によく贈られた。いまなお、竹簾工場は生産を続けている。生産される種類も少なくないが、売れ行きが良いというわけではない。竹簾工場やデザイン担当者は、いかにして竹簾を新しい時代の需要にマッチさせ、いくらか新しさを加え、発展させることができるかを検討している。

 【灯戯】「梁山灯戯」は、梁平に数々の栄誉をもたらしてきた。「灯戯」は今から約500年前の明の正徳年間(1506〜1521年)に、梁山県に伝わる「玩灯」(灯籠踊り)と「秧歌戯」(ヤンコー戯)から生まれ、発展した。灯戯劇団は雨後の筍のように各地に出現し、清朝(1644〜1911年)の中期には、全国津々浦々に広がった。

 灯戯は、民間に伝わる物語に題材をとり、自由で滑稽な表現で、生活の息づかいや地方色を濃厚に感じさせ、大衆から深く歓迎された。その歌は大いに流行し、湖南の「花鼓戯」や湖北の「提琴戯」など数十の戯曲に取り込まれて、「梁山系」と言われる歌の一系統となった。

梁平の灯劇団の役者たちは、出し物の練習に余念がない

 しかし、映画やテレビなど、現代の芸術形式の衝撃を受け、この2、30年で、灯戯はほとんど絶滅してしまった。現在、梁平県灯戯劇団だけ公演を続けているに過ぎない。

 梁山の灯戯劇団は、全国でたった一つ生き残った灯戯を演ずる劇団になったので、何度も国や省、市のコンクールで賞を獲得した。しかし、観客の減少や後継者不足の前にはなす術もなく、毎年わずかに4、5回、公演しているだけだ。

 楊香飛さんは梁山灯戯劇団の大黒柱で、今年47歳。彼はますます、自分の力の限界を感じている。舞台の上は、「歳月、人を待たず」で、自らは老いてゆくのを意識しているが、彼の役を替わる後継者がいない。

 李栄耀団長はもっと心配している。劇団の二十数人の役者は、平均年齢が45歳になってしまったからだ。年とった役者たちは、自分が倒れるとともに灯戯劇団も倒れてしまうのではないか、と心配している。

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泉の甘い水は竹筒で、農家に引き込まれている

 民間に根を下ろした「梁平三絶」は、いずれも農業文明の生んだ産物である。現在、近代化の衝撃に直面し、この「三絶」をどう継承し、発展させるかは、解決が待たれる問題となっている。現地の政府は、「三絶」を梁平のブランドにし、もう一度「三絶」が異彩を放つようにしたいと計画している。関係する専門家や学者たちも「三絶」を調査研究し、民間の文化遺産を保護・救援する行動を始めている。(2005年6月号より)


 
 
 

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