森井庄内氏と国旗事件

 

 

筆者略歴  元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。

   

 

1956年10月6日、北京で日本商品展覧会が開かれる直前、参観に訪れた毛沢東主席(左から2人目)と案内する宿谷栄一氏(左端)、森井庄内氏(左から3人目)、村田省蔵氏(右端)=平井博二氏提供     
 

篳路襤褸啓山林
一旗軽重見人心
先生仗義風雲変
喊出扶桑最強音

 *篳路襤褸=しばで編んだ粗末な車とぼろの着物。苦境にたえて働くこと
 *仗義=正義にのっとり行動する
 *扶桑=東海の日の出るところ、日本の別称

 1958年5月の「長崎国旗事件」により、中日両国の貿易は二年半もの間、一時的な中断を余儀なくされた。当時、多くの日本人が関係修復のために奔走したが、とりわけ積極的だったのが、大阪の貿易促進団体と中小企業界のリーダー、森井庄内氏(1901〜82)である。

 森井氏は奈良県に生まれ、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部を卒業。長年にわたり、日本タルク株式会社社長、大阪工業会副会長などを務めた。50年代には川勝傳、木村一三諸氏と日中貿易促進団体を設立。また早くから宿谷栄一氏らと、日中両国で相互に開く「商品展覧会」の仕事にあたった。そんななか、彼がちょうど展覧会を担当していたときに起こったのが、長崎国旗事件である。事態を重く受けとめた彼の述懐は、それだけに説得力があった。

 長崎国旗事件とは、日中友好協会長崎支部の主催により、長崎市内のデパートで開かれていた「中国切手・切り紙展覧会」の会場に1958年5月2日、台湾側に煽動された右翼団体所属の二人の男が乱入し、会場に掲げられていた中国国旗を引きずり降ろしたばかりか、破損させた事件だ。警察は、二人を事情聴取しただけで同夜のうちに釈放し、軽犯罪法の「器物毀損」で500円の罰金を課したにすぎなかった。それは日本政府が、「日本は中国共産党を承認しない」という理由から「五星紅旗を中国の国旗とは認めない」「承認国の国旗に関する保護規定には適用しない」と判断したことによった。

 これに対し中国は、岸信介首相の対中国敵視政策や言動をきびしく批判。同年5月9日、陳毅副総理兼外交部長が「対日貿易中止」の声明を発表して、両国間の貿易が一時的に中断したのである。

 当時、武漢で日本商品展覧会の開催にあたっていた森井氏は、事態を重く受けとめ、仲間の押川俊夫氏に実務を任せて急遽帰国した。日本商品展覧会の副団長だった彼は、中日両国政府が相手国の国旗に対してそれぞれどんな対応をとったのか、自ら確かめたのである。

 「広州と武漢で行われている日本展覧会の入り口には、長さ3メートル、幅5メートルの日本の国旗が掲げられており、その下には武装した解放軍兵士がそれを守るように直立している。夜は国旗を降ろしてきちんと保管し、汚れればすぐに新しいものに取り替えてくれる。中国側は日本の国旗に対して、厳粛な態度をとっている。しかし、それは中国人が日本の国旗に対して好感を持っているからではない。……日本で起こった非友好的な事件のあと、中国の人々から展覧会の中国側事務所に『日本の国旗掲揚に反対する』との抗議がよせられたが、中国側の責任者たちはいつもしんぼう強く説得していた……」

 また森井氏が思い出すのは、1956年に北京で初めて日本商品展覧会が開かれたときのことだ。会場がソ連展覧館(現・北京展覧館)だったので、毛沢東主席と周恩来総理が日本の国旗に関する特別な指示を出した。なんと、一晩のうちに展覧館のソ連の国旗と国章がすべて覆われ、日本の国旗が掲げられた。警備まで配されて、保護が命じられたのである。

 中国の指導者たちが展覧会を見学し、毛沢東主席が国家元首として、日本商品展覧会総裁の村田省蔵氏に「天皇陛下によろしく」と伝えた。周恩来総理は(当時の)「鳩山一郎首相のご来臨のために、いつでも北京空港を準備していますよ」と語った。その時のことを、森井氏は忘れなかった。

 しかし、岸信介首相は「日本は中国共産党を承認しないので、その代表処での国旗掲揚の権利を認めない。中国共産党が、国旗掲揚を許可しないと貿易を中止する、と言うのは奇怪な論調ではないか」とあくまでも反論した。

 友好か、敵視か? 尊重するのか、民族感情を傷つけるのか? 相手国に対する双方の態度は、まるで「昼と夜」のように明らかな違いがあった。

 展覧会の開催により、両国の多くの人々が足を運び、相互理解と友情がいっそう深まったのだ。それは永遠に語り継がれるべき功績であった。総合的なプロジェクトであり、政治的にも意味深く、それだけにたいへんな仕事であった。展覧会を何度も担当した森井氏は、まさに故事にある「篳路襤褸以啓山林」(苦境にたえて働く)という役目を果たした。普段は冷静沈着な人だが、肝心なときには毅然として立ち、堂々と直言して正義をつらぬいた。あれから40年あまりがたつが、それを思うと今も、粛然として襟を正す思いになるのである。(最終回)