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城壁はすでに夏の時代からありなした。その後、社会の発展とともに原始的な土を固めただけの城壁は次第にレンガを積み上げたものと変化していき、比較的完璧な防御系統が形成されるようになりました。その典型的例は、悠久の歴史を持つ北京で目にすることができます。ほかの土と異なり、北京には「内城」や「外城」といった城壁だけでなく皇城、紫禁城などの城もあるのです。内城と外城に造られた16の雄大な城門の役割は、外敵を防ぐのは主でした。ある城楼の前にはさらに箭楼(せんろう)が築かれていましたが、現在残っているのは、天安門広場南面に立つこの正陽門箭楼と内城北面の徳勝門箭楼だけです。外から敵がやって来ると、都を守る兵士は箭楼から弓を放って侵入を防ぎました。箭楼は戦いのための要塞だったのです。
正陽門は俗に前門と呼ばれ、明代の永楽19年(1421)正月の建造。初めは麗正門と名称され、門だけで楼はありませんでしたが、正統元年(1436)に城楼、瓮城(おうじょう・城門防御用の小城)や箭楼が築かれ、名も正陽門と改められました。
箭楼の高さは城楼よりやや低く造られていて、35・94メートル。灰色や瑠璃瓦が用いられ、屋根は二重、角はそり上がって飛ぶ竜が首をもたげているかのようです。東、西、南の三面の壁と二重の屋根の間に見える四角な空間は射撃孔で、全部で94個あります。土台上部の周囲には漢白玉の欄干がめぐらされています。
清代の光緒26年(1900)、八カ国連合軍の北京侵入によって城楼、箭楼ともに焼失してしまいましたが、その後、光緒年間に再建されています。解放後、北京の開発に当たっては重要かつ代表的な建築物として、取り壊さずに残されることになりました。その気宇壮大さは、いまも変わることはありません。
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