「故人、西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月、揚州に下る」。中国ではだれでも知っている李白の詩です。ここに歌われている黄鶴楼は湖北省武漢市を流れる長江東岸の、蛇山の上に建っています。

 歴史をたどると三国時代、赤壁の戦いに勝った呉の孫権は、やがてみずから帝位につきます。紀元222年のことです。

 その翌年、孫権は江夏(今の武漢市)に居城をつくるのですが、軍事上の目的で長江臨む黄鵠キ(こうこくき)に高楼を建てました。長江から侵入する敵を監視するためです。この楼を人々は黄鶴楼と呼びました。鵠は鶴と音が似ていて、古代文学の中では通用することがよくあります。

 最初の楼がつくられてから1770年ほどになりますが、じつはこの間に何度となく破壊と再建がくり返されました。清代の二百数十年間だけでも7回、最後の楼は同治七年(1868)に建てられ、16年後の光緒10年に破壊されてしまいます。ですから現在の楼は、清代の楼が姿を消してからおよそ百年後に再建されたわけです。清の楼をモデルに、現代の技術と材料を使った倣古建築です。五層で高さは51メートル、だいだい色の瑠璃瓦に暗紅色の柱、最上層の四面に騎楼(外に張り出したベランダ)をつくりつけ、それぞれ「黄鶴楼」「南維高拱」「北斗平臨」「楚天極目」と大書した額がかかっています。楼の基台の前には「黄鶴帰来」と題した精巧な鶴は次のような伝説にもとづくものです。むかし辛という人がここで居酒屋をやっていました。店にひとりの道士がいっぱいやりによく来ましたが、辛さんは飲み代を受けとりませんでした。ある日道士は、あしたはまた旅に出るからといって、みかんの皮で壁に黄色い鶴を描きあげました。そして、店の客がほろ酔い気分で手拍子をとれば、鶴が舞ってくれるだろうというのです。辛さんはその鶴のおかげで大そうなお金持ちになりました。それから10年、ある日のこと道士がひょっこり帰ってきて、自分の描いた鶴に乗って空高く飛び去っていきました。辛さんは高い楼を建て、黄鶴がもどってくるもを毎日待っていたそうです。
 


 
 
 

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