「洞庭は天下の水、岳陽は天下の楼」岳陽楼は湖北の黄鶴楼、江西の滕王閣と共に、江南の三大名楼と称されている。湖南省岳陽市の西門にあり、洞庭湖を臨む風光はとりわけ美しい。

 唐の開元四年(716)中書令張説が岳州に左遷され、楼閣を建てて岳陽楼と命名した。以後清までの千年余り、たび重なる水害や戦火のため、少なくとも51回屋根を葺きかえ、24回改修したという。今の建物は清の光緒6年(1880)のもので宋代の建築様式を保っている。木造、三階建て、梁(はり)、柱、桁(けた)、軒を支える升形などには、一本の釘の使わず、ホゾを用いて作り上げ、高さ19.72メートル。屋根は黄色い瑠璃瓦で葺き、蜂の巣形の升形で支え、湖南の地方色がゆたかである。

 歴代の詩人の岳陽楼をたたえた作は多数あるが、人口に膾炙し、影響力の大きいことでは宋の范仲淹の「岳陽楼の記」が一番だろう。三百六十四字の短文だが、情景描写は真に迫り、文中の「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」は後世に伝わる名言となった。今もこの文章が彫られた木のついたてが楼内にある。清乾隆年間の大書道家、張照の手になるもの。范仲淹が岳陽楼に行ったかどうかについて、史学界でも以前から諸説紛々だったが、研究者が『范文正公文集』『范文正公年譜』などの史書を綿密に調べた結果、彼は幼いころ北方で育ち、後にはずっと故郷を離れた地で官職にあったので、洞庭湖や岳陽楼には行ってないことが確認された。その彼が名作「岳陽楼の記」書けたのは、彼に文章を依頼した友人の滕子京が「洞庭晩秋図」を提供したからで、范は借景によって感情を述べ、「先憂後楽」の抱負を表現したのだ。

 岳陽楼はその独特の魅力で内外の観光客をひきつけてやまないが、うるわしい山河は筆や墨で形容しきれるものではない。やはり詩人李白の一句「風月無辺」(山水の風光は果てしがない)を使うしかないだろう。

 


 
 
 

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