古代中国では、峻険な山々や深い谷にはばまれて、交通が遮断されたいたところがありました。しかし、政治、経済、そして文化交流の必要から、切り立った崖に柵のように設けられた道が次第に造られるようになったのです。これが「桟道」で、「閣道」とも呼ばれています。桟道は急峻な場所に架けられた特殊な橋、と言っていいでしょう。蜀の桟道は、最古のものとしてよく知られています。

 桟道はまず、切り立った崖に一定の間隔で穴をあけ、横木の一端をその穴に入れ、もう一端は石壁に立てた木の柱で支え、さらに木の板や竹などを敷いて造るのです。古代に造られた桟道は木の橋として考えられ、四川、陝西、雲南、貴州などに多くありましたが、修復を重ねても木製のため腐朽が激しく、いまではほとんど見られなくなってしまいました。
 この桟道は1958年に修復されました。山西省大同市の南東にある恒山。この一帯は高峰が連なる険しいところで、天峰嶺と翠屏峰の間の金竜峡に北魏の道武帝が造りました。金竜峡は要衡の地だったのです。

 桟道は懸空寺の門前からダムまで伸びています。まるで雲のなかを飛ぶ竜のようにくねくねと続き、険阻な壁にはめ込まれた雲に昇る階段かと錯覚してしまいます。(文・史和平)



   
 
 

本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。