中国共産党指導下の抗日戦争

中国中日関係史学会副研究員・弁公室主任  朱福来

日本帝国主義は中国の東北三省を占領してから、その魔手を山海関の内側に伸ばしてきた。1935年、日本軍は北平、天津に迫り、「華北事変」をひき起こした。国民政府は何応欽を派遣し、彼は日本の華北駐屯軍司令官梅津美治郎と「何梅協定」に調印した。この協定は、中国軍の河北からの撤収とすべての抗日活動の取り締まりを要求するものであった。その後、日本はまたしても華北五省の自治を画策し、華北を第二の満州国にしようとした。蒋介石政府は無抵抗政策を続け、次々と敗退を重ねた。中華民族が生死存亡の関頭にあったこのとき、中国共産党は中華民族を苦難の淵から救うため、奮然として抗日の旗じるしをかかげ、中国人民を指導して、抗日救国の勇ましい闘争を展開した。

抗日民族統一戦線を樹立して持久戦を堅持

民族的矛盾が主要な矛盾となった時点に、全国各階層の勢力をもっとも幅広く結集して抗戦に投入するため、中国共産党は1935年、「八・一宣言」を発表し、内戦を停止して、一致して抗日することを呼びかけた。同年末、中国共産党中央委員会は瓦窰堡会議で、抗日民族統一戦線を樹立する方針を確立した。

中国共産党の主張は全国人民に一致して擁護され、蒋介石の無抵抗政策は各界人民の反対に遭った。1936年12月、愛国将領の張学良、楊虎城が「西安事変」を起こし、蒋介石に抗日を迫って、彼を軟禁した。中国共産党は民族の利益から出発して、抗日民族統一戦線結成の必要から、西安事変の平和的解決を主張し、周恩来らを西安に派遣し、交渉に参加させた。蒋介石は、大勢の赴くところ内戦を停止し、連合して抗日するとの主張を受け入れざるをえなかった。西安事変が中国共産党の積極的な参加のもとに平和的に解決されたことは、当時の情勢を転換させるカギとなり、中国共産党の抗日民族統一戦線政策の勝利ともなった。

日本軍の猛攻を前に、国内では「速勝論」と「亡国論」の二つの論調が現れた。それは盲目的に楽観するか、あるいは悲観し失望するものであった。毛沢東は1938年、有名な『持久戦について』を発表し、抗日戦争の情勢と発展を科学的に分析した。毛沢東は「中国は速勝もできないが、滅びることもない。抗日戦争は持久戦であり、最後の勝利はかならず中国のものである」と指摘した。毛沢東は、抗日戦争は戦略的防御、戦略的対峙、戦略的反攻の三つの段階を経ることを明確に打ち出し、抗日戦争の勝利をかちとるための正しい方向を指し示した。

抗日根拠地をつくり、血戦で勝利をかちとる

「蘆溝橋事変」は全国抗戦の起点となった。中国共産党中央委員会は1937年8月、陝西省北部の洛川で政治局拡大会議を開き、敵の後方で独立自主の遊撃戦をおもいきり展開し、敵後方に抗日根拠地をつくることを決定した。

8月、中国労農赤軍は国民革命軍第八路軍に改編され、朱徳が総指揮官となり、彭徳懐が副総指揮官となった。11月、中国南方に残っていた赤軍の遊撃隊が国民革命軍新編第四軍に改編された。

同年9月、八路軍は華北に挺進し、抗戦の前線に向った。同月、八路軍第百十五師団は板垣師団と平型関で大戦を交え、日本軍の精鋭部隊千余人をせん滅し、大量の軍需物資を捕獲し、輝かしい勝利を勝ち取るとともに、日本軍不敗の神話を打ち砕いた。

10月には第百十五師団の独立連隊3000余人が山西、察哈爾、河北の三省の接点に進出し、1カ月余の戦闘のすえ、五台山を中心とする晋察冀抗日民主根拠地をつくり上げた。これは八路軍が樹立した最初の根拠地だった。その後1938年から40年までに、晋西北抗日根拠地、晋冀豫(山西、河北、河南)抗日根拠地、山東抗日根拠地、蘇南(江蘇南部)抗日根拠地、鄂豫(湖北・河南)辺区抗日根拠地、津浦路(天津=浦口鉄道)東西抗日根拠地、瓊崖(海南島瓊崖地区)抗日根拠地が次々とつくられた。中国共産党中央委員会の所在地であった陝甘寧(陝西、甘粛、寧夏)辺区は、全国の敵後方抗日根拠地の指揮中枢であり大後方であった。

抗日戦争が対峙段階に入った1940年8月から12月5日まで、八路軍は彭徳懐らの指揮のもとに、前後して百連隊、およそ30万の兵力で、華北の主要交通線を全面的に破壊する襲撃戦を展開した。この間に八路軍は大小1800余回の戦闘をおこない、日本軍およびかいらい軍に2万5800余人の死傷者を出させ、3000にのぼる拠点を破壊し、鉄道線路900余キロ、道路3000キロを破壊した。これがあの有名な「百団大戦」である。

共産党指導下の抗日武装勢力が日ましに強大となり、しかも断固たる抗日姿勢を保っていたため、日本帝国主義は戦略方針を変えた。彼らは侵略軍の半分以上の兵力を集中して共産党指導下の抗日根拠地に攻撃をかけ、「掃討」をおこない、非人道的で惨虐きわまりない「三光政策」を実行した。そして国民党政府に対しては、「政治的降服を呼びかけることを主とし、軍事的打撃を与えることを副とする」ことに改めた。

敵の狂気じみた攻撃に直面して、中国共産党指導下の抗日根拠地の軍民は、断固たる反「掃討」の闘争を進め、軍隊と人民が一体となり、正規軍、遊撃隊と多数の民兵が結びついて、地下道戦や地雷戦をおこない、敵後方で武装工作隊を組織するなど、多種多様な方式でねばり強くたたかい、敵に痛撃をあたえた。1941年6月から43年5月までの2年間に、八路軍、新四軍はあわせて4万2000余回の戦闘をおこない、敵軍35万余人をせん滅し、日本侵略者の進攻を粉砕し、解放区をうち固め、抗戦を堅持した。そして1944年までに、八路軍、新四軍の主力部隊は91万人にまで増え、根拠地の総面積は95万6000平方キロとなり、その総人口は9550万人に達した。

中国共産党指導下の抗日戦争、全国人民の犠牲を恐れぬ勇敢な奮戦、そのうえ国際的要因が加わったことにより、日本政府は1945年8月15日、ついに無条件降服の受託を余儀なくされた。

「北京週報」より 2005/09/02