靖国神社に祀られるA級戦犯:白鳥敏夫

白鳥敏夫は1887年に千葉県で生まれ、東京大学法学部を卒業し、外務省へ就職した。

1938年、白鳥はイタリア大使に就任する。1939年1月、平沼騏一郎内閣が成立し、ナチスドイツは再び平沼内閣へ三国同盟結成を提案した(1938年8月にドイツは近衛内閣へ議案を提出したが、内閣の意見がまとまらず、実現しなかった)。

大島浩駐ドイツ大使と白鳥敏夫駐イタリア大使は、この提案に積極的賛同と支持を表明し、連名で内閣へ賛成意見を提出した。平沼内閣は直ちにドイツ提案に関する討議を行い、板垣征四郎陸軍大臣と東条英機陸軍次長が三国軍事同盟の結成に積極的賛同を示した。

有田八郎外務大臣や海軍派も三国同盟条約の締結に賛成したが、日本の主要敵国はソ連であり、英米との衝突を避けるべきと主張した。内閣の意見は大島・白鳥両大使へ伝えられ、それぞれドイツとイタリアへ伝達するよう訓令が出された。しかしながら、英米と開戦しないという姿勢を内閣が明確に示さなかったため、大島と白鳥は、内閣の訓令を独伊両国へ伝達できないと連名で述べた。

 3月22日、内閣は首相、陸相、海相、大蔵相、外相からなる五相会議を開き、「独伊両国が英米と開戦した場合、日本は原則として支持するが、現在および近い将来に参戦することは難しい」というあいまいな結論を出した。ところが、大島と白鳥は政府の意向を無視し、相手国外相に「ドイツやイタリアがソ連以外の国から攻撃された場合、日本は参戦する義務がある」と勝手に請け負った。

4月11日、昭和天皇は板垣を呼び出し、両大使が勝手に参戦の意思を示し、天皇の「統帥権」を侵害したと指摘。同年8月、内閣は五相会議を開いたが、海軍も三国同盟に乗り気ではなかったため、板垣は陸軍大臣を辞し、平沼内閣は総辞職を宣言。三国同盟は一時棚上げとなった。

1940年9月9日、近衛内閣は首相、陸相、海相、外相からなる四相会議を開き、日独伊枢軸国軍事同盟を締結する原則を固めた。9月27日、日独伊三国はベルリンで三国軍事同盟条約を正式に締結した。三国軍事同盟条約の調印後、白鳥は帰国し、外務省顧問となった。1940年8月、近衛内閣は大政翼賛会を組織し、国内の政党をすべて解散させた。白鳥は大政翼賛会総務に推薦されて、大政翼賛会の運営実務を担当し、日本の対外侵略や、国内鎮圧といった軍事ファシスト体制強化に犬馬の労を尽くした。

日本の無条件降伏宣言後、白鳥はA級戦犯の疑いで占領当局に逮捕され、1948年11月に「侵略戦争共同謀議罪」で終身禁固(無期懲役)となった。法廷では、白鳥が在職期間中、侵略戦争拡大に向けた「最も有力な宣伝者」となり、「量刑は彼の職務を考慮したものではなく、その行動が自身の職務を超越し、重大な結果を招いたことによる。このため本法庭は彼を(侵略戦争)共同謀議のリストに加えた。その罪はたいへん重い」とされた。

1949年9月、白鳥敏夫は服役期間中に獄死した。

                              「人民網日本語版」