靖国神社に祀られるA級戦犯:広田弘毅

広田は1878年に福岡県で生まれ、1901年に東京帝国大学法学部へ入学した。1915年、日本は中国の主権を著しく侵犯する「二十一カ条の要求」を北京政府へ提出し、広田はこの侵略性文書の起草人の一人となった。

1933年、広田は外務大臣に就任。1935年10月、広田は日中関系に関する三原則(1)中国は排日活動を徹底的に取り締まり、欧米に依存した政策から脱却し、親日政策を採用すること(2)中国は正式に「満州国」を承認し、華北地方における日中満の経済協力を実現すること(3)日中満は防共問題で協力すること――を提出した。「広田三原則」は実質的に中国を日本の軍事、政治、経済統制下に置くものだった。

日本の右翼軍人は1936年2月26日に暴動を起こす。暴動鎮圧後、広田は新内閣の総理大臣に就任する。ほどなく、内閣は軍部大臣現役武官制を復活。これは陸海軍大臣の就任資格を現役将校に限定する制度で、政府と軍部の意見が一致しない場合、陸海軍大臣の辞職等によって政府の組閣がかなわず、総辞職を余儀なくされる。このため、政府は軍部の言いなりになってしまう。広田内閣の誕生は、天皇と軍部を中心とするファシスト体制の樹立を示すものとなった。

広田新内閣は間もなく拡張方針を決定づける「国策の基準」を出した。ここで確立された国策とは、「帝国は東アジア大陸における地位を確保する一方、南方海洋へ進出発展する」というものだった。中国拡張と南進準備のため、日本は全面的な軍備拡張と戦争準備に入る。陸海軍はそれぞれ軍備拡張五年計画と巨大戦艦建造計画をまとめ、言論、産業等各方面における統制を強化した。広田内閣期に、戦争に向けた総動員体制確立の動きが始まったと言える。

広田内閣は1937年1月に総辞職する。同年6月、広田は第一次近衛内閣の外相に就任。盧溝橋事件勃発後、広田は対中国戦争拡大化に関するあらゆる政策決定に参与し、日本を全面的な中国侵略戦争へ導く主謀者の一人となった。

1940年、広田は米内光政内閣の参議となり、顧問の役割を担う。同年、第二次近衛内閣の組閣を決定する重臣会議に出席する。重臣は首相選出という重大な権限を負った。日本の敗戦まで、広田は常に歴代内閣の組閣に携わり、国家最高統治集団の中心に位置した。中国に対する侵略拡大、東条英機の首相選出、太平洋戦争発動に対し、広田は回避することのできない責任を負っている。

1945年12月、広田弘毅は駐日同盟軍に逮捕される。

1946年3月、極東国際軍事裁判は広田弘毅をA級戦犯に認定。法庭で、広田弘毅は相当長い期間、日本の外交を担い、あるいは外交政策の決定に参与し、中国侵略や、日本とドイツ・イタリアとのファシスト同盟結成、太平洋戦争の誘発に直接かつ重大な責任を負っているとされた。

判决書はさらに、南京大虐殺という残虐行為が起こった際、外相である広田は日々おびただしい数の殺人、強姦、その他暴行が行われていることを知りながら、「直ちに暴行を阻止する措置をとるよう内閣会議で主張せず、また暴行を阻止しうる措置を何も講じようとしなかった。これは職務を怠るものであり……彼の怠慢は犯罪を構成する」と指摘した。このため、裁判は広田を「平和破壊罪」と「戦争法規慣例違反および反人道罪」で絞首刑とした。1948年12月23日、広田弘毅は巣鴨プリズンで処刑された。

                       「人民網日本語版」