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二千年の時空を超えて
二千年以上も地中深く埋まっていた楽器は、どんな音を出すのだろう。さまざまな古代の楽器のオーケストラは、妙なる調べを奏でるだろうか。中国山東省でこのほど出土した数百点もの楽器による特別演奏会が、山東テレビ局で、三日間にわたり催された。 聴衆は驚きの声をあげた。古代の楽器たちは『蘇武牧羊』とか『茉莉花』といった中国の有名な歌曲の旋律をきちんと奏でたからである。 しかし、この古楽器はもう二度と音を出すことはあるまい。博物館に収められてしまうからである。 中国で権威ある考古学者と音楽界の専門家は、これらの楽器を「編鐘」「編磬」「ロ(ジュン)于」「鉦」「鐸」と鑑定した。編鐘は音律の異なる小さな鐘を二層に吊るして並べた楽器。編磬は石や鉄で作られた板を叩いて音を出す。ロ(ジュン)于は槌で叩く楽器、鉦は握り柄のある鈴、鐸は大きな鈴で、日本の古墳から出土する銅鐸に似ている。
しかもこの編鐘は、一つの鐘から二種類の音が出る「双音鐘」で、一つも欠けず完全な姿で発見された。これまでは、双音鐘を作る技術は秦や漢の時代には失われたと考古学界では考えられてきた。しかしこの発見で、前漢の時代にも双音鐘が存在し、依然演奏されていたことがわかった。さらに保存状態がよく、音階が完全に整った大量の編磬が出土したことは、資料の乏しい漢代の音楽や楽器の研究にとって、大きな意義をもっている。 いったいどんな人物が、古楽器による演奏を楽しんだのだろうか。楽器はどこから出てきたのか。 古墓はどのようにして発見されたか。 山東省の省都、済南市から東に40キロ余り、章丘市がある。そこに、洛荘村という小さな村があって、村の西側にある田畑の中に、かなり大きな土の丘がそびえ立っている。夏になると村人たちは、この丘に登って夕涼みをしてきた。だが、広々とした田畑にどうしてこんな土の山があるのか、誰も考えたことがなかった。
6年ほど前にこの丘の近くで、道路工事が始まった。ブルドーザーの騒音が、この丘の二千年の眠りを破った。丘の土は削られ、道路や家の建設にも使われた。 そして1999年6月26日の昼前、土をすくっていた一台のショベルカ [が青緑色をした物体を掘り起こした。よく見るとそれは大量の青銅の鼎であった。鼎は三本足で耳が二つある古代の器である。 近くで働いていた農民たちはこれを見ると、わっと集まって来て、地面にむき出しになった青銅器をてんでに奪い取った。しかし警察や博物館などへ通報があって、かけつけた警官が現場を封鎖し、奪われた文物もすぐに回収された。 発掘が始まった。これを指揮した済南市考古研究所長の崔大庸博士によると、この古墓の規模は雄大で、地面に積み上げられた盛り土の面積は、もとは一万平方メートルもあった。高さも20メートル近かったが、近年、多くの土が削り取られ、だんだん平らになってしまったのだという。 驚くべき発見に沸く考古学界 陪葬坑はこれまでに、31基発見されている。これらは三層に分かれている。もっとも上の浅い層は牛坑である。ここには水牛が生きたまま埋められた。中間の層は陶器や漆器が収められていた坑があった。最下層は十数基の大きな坑で、車や馬を入れた車馬坑、楽器を入れた楽器坑、兵器を入れた兵器坑などが見つかった。 洛荘漢墓の中でもっとも注目を集めたのは、大きな楽器坑の発見である。20メートル以上もある楽器坑からは、140余りの文物が出土した。その中に二種類の楽器があった。一つは弦楽器類で、指で弾くタイプのもの。大部分は腐ってしまったが、残された痕跡から大型の琴である瑟や日本の琴に似た箏であることがわかった。 もう一つは打楽器類。その中で専門家をうならせたのは、一組の完全な青銅の編鐘である。この編鐘はきちんと並んで出土し、当時鐘をつるす枠に掛けられたまま埋められたと思われる。保存状態は非常に良く、出土したあと軽く磨いただけで、新品のようにきらきらと輝いた。 これは中国で初めて発見された前漢時代(紀元前206〜紀元8年)の編鐘である。戦国時代(紀元前475〜同221年)の編鐘も出土しているが、今回出土した前漢時代の編鐘とは、形も描かれた模様も異なり、明らかに違いがあった。さらに貴重なのは、この編鐘が副葬品として特別に造られたものではなく、実際に楽器として使われ、当時の音色のままに今日でも演奏できることである。 同時に出土したロ(ジュン)于は、もっとも大きくて重い青銅の楽器である。もっとも小さいものは鐸といい、手のひらの半分ほどの大きさで、中に細長い金属製の「舌」がさがっていて、揺らせばリズム感のある音色を出す。さらに 于、鐸と同じ場所から出土した青銅の鉦は、取っ手を握り、先端に金属をつけた小さい金槌のようなもので叩いて演奏する。こうした異なる三種類の楽器が一度に出土したのは大変珍しい。 さらに六組の、石で造られた編磬は保存がかなり良く、磬の数は各組で13個から20個とそれぞれ違うが、大きな磬から小さな磬へと規則的に並べられている。しかも石磬にはそれぞれ番号がつけられていて、石磬の配列やつるす順序を決めるのに重要な手がかりとなる。発掘された編鐘と石磬から判断すると、編鐘も石磬もこれをつるす枠があり、その高さは1・5メートル前後だったと思われる。このことから漢の時代の楽人は、地面に筵を敷いて座り、楽器を叩いて演奏したことがわかる。 墓の主人は誰だろう このように巨大な墓に葬られたのは、いったいどんな人なのだろうか。
発掘隊長の崔博士は、墓の主は前漢の高祖、劉邦(在位、紀元前206〜同195年)の妻であった呂后の実の甥で、前漢初期に呂の国の初代国王であった呂台に違いない、と分析している。 その根拠として挙げられるのは第一に、墓の規模が非常に大きく、墓室の面積が1295平方メートルにおよび、31も陪葬坑があることだ。これは前漢時代の諸侯や王の墓と比べ陪葬坑の数がもっとも多いことから、王の墓に違いない。 第二に、文書を封印した粘土の塊の上に印鑑を押した「封泥」が、数多く墓から出てきた。この封泥は、墓の主人の身分を考証する価値ある証拠である。比較的完全な26枚の封泥には、「呂大官印」「呂内史印」「呂大官丞」の三種類がある。 前漢の前期は、「郡国制」がとられ、漢の統一に功績のあった功臣や皇帝の一族には郡や国が与えられ、郡や国には官署が置かれた。見つかった三種類の封泥に押された印は、いずれも呂の国の官署で使われたものに違いない。 さらに前漢時代、墓の所在地である済南には、まず呂国、次いで済南国の二つの国しか存在しなかった。しかし済南国の国王は、罪に問われて殺されており、このように規模が大きく、位の高い人を葬る陵墓を造ることは不可能である。従って、この墓は呂の国王のものでなければならない。
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