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中国仏教の最初の宗派・天台宗の誕生の地である天台山国清寺は、海に近い浙江省東部の天台県にある。境内には大小の寺院が十数カ所あり、僧侶は数百人を数える(詳しくは本誌2000年8月号の「中国古寺巡礼」で紹介した――編集部)。 ここに、次代を担う僧侶を養成する「天台山仏学院」が開校して二年経つ。どんな若者が、何を考え、どういう修行を積んでいるのだろうか。 仏門に入る 浙江省の省都、杭州から東南へ220キロ、天台山の中腹に、国清寺の塔頭(小寺院)がある。ここは、天台宗の開祖・智 大師のご遺体を納めた塔があることで知られる。鬱蒼とした松の林が広がるこの塔頭に、「天台山仏学院」が開校した。
学僧たちは全国各地から集まる。すでに寺の住職になっている者もいれば、仏門に入ったばかりの少年もいる。経歴はさまざまだ。 「聖灯」という学僧は、21歳。四川省峨眉山から来た。出家した当時は、面白半分だった。中学卒業後、高校に合格したが、お寺の坊さんたちを見ていて突然、小坊主になったら面白かもしれないな、と思って出家したという。しかし日がたつにつれ、最初に持っていた好奇心は失せ、還俗して学校へ行きたいと思うようになった。 だが、師や先輩の僧から何度も諭され、仏教の著作を真剣に読んだ。とくにある密教の大師の伝記を読んで感動し、ついに寺に留まることにした。ところがしばらくしてまた、還俗したくなった。こうした曲折を何度も繰り返したが、ある日、レストランで酒色のかぎりを尽くす人々を見ているうちに、どうして人々はこんなことのために、一生懸命金を稼ぐ苦労をするのか、と思うようになった。出家すれば欲がなくなり、そうすれば悩みもなくなる、その方が良いのではないか、思い始めた。そこで、にわかに仏の道を悟り、出家の意志もしっかり固まって、正式に戒を受けたという。
「聖灯」とは違い、「永思」という学僧は、浮世に見切りをつけて仏門に入ったといえる。永思は河南省鄭州のある大学の法学部を卒業した。学僧の中で彼は、学歴がもっとも高い。大学に入る前は裁判官になりたくてたまらなかったが、大学で、事件処理の実例の講義を受け、卒業実習でさまざまなことを見聞した。その結果、これから予想される裁判官の生活に失望し、いや気がさしてしまったという。 もともと母親が念仏を唱えるときにはとくに気に留めなかった彼だが、このときになって母が持っている仏教の書籍を意識的に読み始め、そのうち夢中になってしまった。大学卒業後、数カ月間仕事もし、弁護士の資格を取る試験も受けた。しかし、とうとうすべてを投げ捨ててしまい、父母の反対も顧みず、天台山仏学院にやって来たのだった。 仏学院の一日
天台山仏学院の一日は、朝の読経から始まる。それが終わると、当番の学僧が庭を清掃し、他の学僧たちは身の回りを整える。5時には、板木の音を合図にみな斎堂に集まり、朝食をとる。その後は自習で過ごす。 8時から正式の授業が始まる。授業をする法師は規則通り足を組んで座り、講義を始める。仏学院のカリキュラムはその範囲がとても広く、三年間にインド仏教史、中国仏教史、天台宗の教義、漢文と習字のほか英語も学ばなければならない。今後の仏教の研究や対外交流にとって英語は基礎となるからだ。学歴や経歴がそれぞれ異なる学僧にとって、英語の勉強は非常に難しい。夜更けになっても、英語の先生の宿舎が学僧で溢れている光景がよく見られる。 午後4時に授業が終わると学僧たちは、宿舎に戻って仏殿に上がるための「海青」と呼ばれる僧衣に着替える。朝の時と同じように大殿に集まって経を読み、祈祷する。これを「晩課(夜の読経)」という。
仏殿を上がるときも規則が多い。並び方にも決まりがある。出家したばかりでまだ受戒していない沙弥は、みな仏殿の右側に並び、すでに受戒した正式の僧は左側に並ぶ。左側の僧侶たちは「海青」の僧衣の上に茶色の袈裟をつけているのが特徴だ。 仏門の規定により、学僧たちはいつも威儀を正した立ち振舞いが求められている。例えば、発言には道理があり、挙止には失態がなく、敷居に座ったり、壁に寄りかかったりしてはならない、食事をするときに雑談してはいけない、等々である。 夜の6時から7時までの一時間だけが、学僧たちのほっとできる時間がある。彼らは三々五々、寺を出て、石段の山道をのんびりと散策する。夕日がゆっくりと山に沈み、学僧たちを誘惑するかのように麓の天台県の街の灯がまたたき始める。 夜8時、自習が終わると、学僧たちは綿入れの僧衣を身に付け、大殿の左側の止観堂にやってくる。天台宗で最も神秘的とされる「修止観」(止観を修める)の時刻になる。「修止観」とは、天台宗独特の修練方法であり、「止」は雑念を止めて心を集中すること、「観」は知恵の働きをもって対象を観ることだという。 止観堂には幅一メートル、長さ十数メートルの木製の台がいくつか並べられていて、その上に防寒の座布団が敷いてある。学僧たちは綿入れの僧衣を着込み、靴を脱いで台の上に足を組んで座り、呼吸を整える。そして監督の法師が灯を消して、扉を閉め切る。学僧たちは気持ちを集中し、息遣いは小さくなり、やがて瞑想の境界に入る。 瞑想は一時間続けられる。この時間帯に、止観堂の周囲十数メートル以内では、何の物音も立ててはならない。人々は忍び足で歩かなければいけないのだ。 戒を受ける学僧たち 10月のある日、月真法師は28名の学僧を連れて浙江省の仏教聖地・普陀山へ行った。学僧たちに戒を受けさせるためである。
受戒は仏教徒の一生の大事である。一般に沙弥は、ある程度、修行を積み、合格すれば戒を受けられる。受戒はまた「求戒」とも呼ばれる。それは自ら進んで戒律を守り、修行し、本当の「比丘」(出家)となることを望むという意味である。 戒を授ける側は、戒を求める者に審査と訓練を施す。それは資格の審査、生活の訓練、耐久力の訓練、仏教理論の学習などを含んでいる。全てに合格した後で、「沙弥戒」「比丘戒」「菩薩戒」の順に、三回に分けて受戒が行われる。「比丘戒」だけでも、戒律は二百五十に達し、すべての受戒に一カ月近くかかるから、意志の弱い者は途中で落伍する。合格した者は一生その戒を守らなければならない。 普陀山に着いて二日目、「封壇」が宣言される。つまり、受戒式が終わるまで、寺院から一歩も出てはいけないということだ。三日目の午前、厳しい資格審査が行われる。今回の受戒には、各地の仏学院や寺院から約300人がやって来た。 次の日からは、起居飲食の規範訓練が行われる。仏門の定めは厳しく、食事だけでも多くの決まりがある。まず斎堂に入って静かにすわり、飯碗は真ん中に、箸は右に置く。置く位置も厳しく決められている。おかわりする場合、碗を机の縁にそっと押し出し、飯をつぐ係りがやって来たときに、箸で碗の中を差し、ついでほしい飯の量を示す。飯やおかずは残してはいけない。
学僧たちの休日 日曜日ともなると、学僧たちは天台県の県城へ出かける。 朝六時、「普照」という学僧は、5、6人の学僧といっしょに橙色の物入れを背負って山をおりた。学僧らしい厳かな立ち振舞いの中に、久しぶりに街に行く喜びを隠しきれない。街に着くとみな真っ先に町の病院へ行った。「荘智」という学僧ら二人が、ちょっと身体の具合が悪く、医者に見てもらいに行ったのだ。他の学僧は三階の病室へ、入院中の同級生を見舞いに行った。こんな多くの同級生がやって来たので、患者の学僧は興奮で顔を紅潮させた。周囲に誰もいなかったので、みんなすぐ病床を囲み、ぺちゃくちゃと病状を尋ねたり、手を繋いだり顔を撫でたりした。このときばかりはみな、元気いっぱいの少年にかえっていた。 でもいまの学僧にとってもっとも重要なことは、郵便局へ行って電話を掛けることだ。郵便局に着くやいなや、みなテレホンカードを取り出して、慣れた手つきで家に長距離電話をかけ始めた。父母に勉強の様子や休暇の日にちを知らせる者もいれば、父母に送金してほしいと頼む者もいる。親戚や友人、学校の先生に電話をかけた者もいる。 電話がすんだ後、表情はさまざまだった。興奮してはしゃぐ者、ほっとしている者、黙って一言もしゃべらない者……。出家すればすべての情を絶ち切り、浮世とは決別するはずなのに、なかなかそうはいかないように見えた。(2001年8月号より)
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