過去に眼をつむらない

   黒河市孫呉県を訪れて


         文 写真・楊国光        

 
 

 

  黒竜江省黒河市は、歴史的ないわれのある中国最北東の街だ。日本とも「縁」が深く、わけても同市孫呉(県)は、かつて旧日本関東軍の「軍都」とまで称された要衝の地である。

 近年ここで、旧日本軍の遺棄した毒ガス弾が発見されたのにつづき、「黒竜江に取り残された朝鮮人慰安婦」文明金さん(83)の存在が確認され、故郷の韓国でも大きな話題になった。

 そんな孫呉をこのほど、はじめて訪れた。

 首都の北京からは黒河行きの直行便はない。まずハルビンまでジェット機で一時間半、そこから夜行列車に乗り換え、11時間後の翌朝未明、ようやく黒河に到着した。

 

   

       河を隔てロシアと向き合う

 こんにちの黒河はなだらかな小興安嶺の北のすそ野に広がる。総面積6万9000平方キロ、人口百68万人。都会と農村の風景が交錯する、大きな都市だ。一区(愛輝区)、二市(北安市、五大連池市)、三県(嫩江県、遜克県、孫呉県)からなる。

 世界第八番目のアジアの大河・黒竜江をはさんで、黒河とロシアの国境線は358キロにわたる。広大無辺といわれる黒竜江だが、ここ黒河では川幅わずか750メートル、雨の日でも対岸のみえる至近距離にある。

 その対岸に位置するのが、ロシアのブラゴベシチェンスク市だ。ウラジオストク、ハバロフスクにつぐ極東ロシア第三の都市で、アムール州の州都でもある。同州のボヤルコボ港とコンスタンチノフカ港とは、これまた同じく黒竜江をはさんで黒河の遜克港、孫呉港が向き合う。

 かつては7000キロにも及んだ中ソの国境だが、河川を介しての対応都市は黒河だけ。それだけに同市が持つ軍事的な意味には特殊なものがあった。対岸のブラゴベシチェンスクの北辺には、戦前まで唯一とみなされたウラルのチェリャビンスクと極東のウラジオストクをむすぶシベリア大鉄道が通過していた。

 31年9月18日、対中15年戦争の発端となった柳条湖事件が勃発。翌32年、「満州」の主要都市と鉄道沿線を占領した関東軍は傀儡政権を打ち立て、さらに黒竜江とウスリー江に向けて軍を展開、同年末には河岸一帯を制圧し、対ソ連戦に備えて即座に「北辺鎮護」計画を実施したのである。

     「大きな孫呉」と呼ばれて

 孫呉は関東軍の元「軍都」だったところだ。そこへは黒河市区から車で東へ四時間。土ぼこりの立つ「二〇二国道」に沿って、まっしぐらに走る。総面積四千五百平方キロ、人口八万人の小さな県だ。県城(県政府の所在地)の孫呉鎮には大通りの両側に、色あせた低い建物が不規則に建っていた。

 その中の一つ、二階建ての県文化館の一室に、孫呉第二次大戦研究会の会長・楊柏林氏(64)を訪ね、彼の案内で旧日本軍の侵略の跡地を回った。

 同会長は、地元出身の歴史学者で中国の東北農業大学客員教授、日本統治時代の被害者で目撃者でもある。

 彼によると、関東軍は「北辺鎮護」計画により、中ソの中国側国境をその地理的位置や戦略的意図から、東部正面(旧満州の牡丹江省と間島省)、東北部正面(同三江省)、西部正面(同興安省)、北部正面の四戦区に分け、31年から四五年までに、計十四カ所の要塞を構築した。

うち旧満州・黒河省の北部正面は、孫呉正面とも黒河正面とも称した。そこでは、対岸のアムール州と州都のブラゴベシチェンスクを「仮想敵」とし、黒竜江沿いの孫呉の霍勒漠津(別名・勝山)、アイ(王に愛)琿、黒河、法別拉を「国境陣地」として定めたほか、兵員と兵器輸送のための北黒(北安―黒河)鉄道を敷設した。

 中でも、ホルモジンに造られた要塞は国境陣地の最たるものだった。難攻不落をほこり、地下全長20キロ、地上を高射砲・重砲、トーチカ、鉄条網で固め、背後に各種兵站・兵舎を構えた。また火力発電所、陸軍病院、軍用郵便局、満蒙開拓少年訓練所、満鉄旅行社、国民学校、さらには映画館や軍人クラブまで設置、慰安所だけでも五カ所を数えた。このホルモジン要塞およびその他の軍事施設の建設にかり出された中国人労働者は約六万人、うち一万人近くが非業の死をとげたという。

 孫呉守備隊には、常時2万人がいた。「最盛期」の38年は「北進」をねらってか、総勢70万人の関東軍のうち、10万人の兵が孫呉に駐屯、日本人開拓団も1500人を超えた。この中には、いわゆる満州国の傀儡軍は含まれていない。孫呉が「軍都」、「小さなハルビンに、大きな孫呉」と呼ばれたゆえんである。

      曽家堡飛行場と六七三部隊

 翌朝、孫呉鎮から北東へ約40キロのホルモジン要塞へ向かうも、前夜の雨で車が泥濘にはまり立ち往生、やむなくコースを変更した。要塞は、「文物」遺跡の一つに指定されてはいるが、資金の関係で整備や開発が遅れ、ほとんどが昔のまま放置されていると言う。

 最初に訪れた曽家堡飛行場は、日本統治時代、孫呉に設けられた三つの飛行場のうちの一つ(他の二つは平頂樹と辰清)であった。だだっ広い野原の真ん中に位置する。話によると、滑走路は長さ1180メートル、幅100メートル。格納庫が四つある。真珠湾攻撃の際、威力を発揮したとされる戦闘機「ゼロ戦」と中型輸送機が離着陸できた規模だという。ソ連軍が撤退間際に行った爆破と破壊で、司令塔も格納庫も瓦礫と化していた。今に残るのはコンクリートで固められた滑走路だけ。そこは脱穀場代わりに使われていた。

 次に向かったのは、「六七三」部隊の跡地である。「六七三」とは、関東軍の細菌部隊・七三一部隊が40年以降、旧満州に置いたとされる四支部隊の一つ(他は海林、林口、海拉爾に設置された)。外部の眼を遮断するためだったのだろう、森に囲まれた小高い丘の上にその跡地はあった。当時は敷地総面積20万平方メートル。花を植え、「スズランの花咲く丘」でカムフラージュしたというが、真相はいうまでもなく凄絶をきわめた。

 チフスやコレラ、ネズミ(ここでは多種のネズミが捕獲できた)を媒介とするペスト菌などの兵器転用研究や開発を行い、中国人やロシア人の捕虜「丸太」を使った生体実験テストを行った。当初は軍医、薬剤師、技師、技手など30人で研究開発をはじめ、41年には80人、45年には120人を擁するまでになった。細菌戦を急ぐ軍部の力の入れようを物語るものだ。

 45年8月9日、ソ連参戦とともに、ソ連赤軍が黒竜江を強行突破した。赤軍が孫呉に到着する直前、最後の支部隊長・西俊英(中佐)の命令で、機密資料とともに、実験室、解剖室、動物飼養室、訓練所などすべてが焼却され、破壊された。証拠隠滅のためである。次いで、西俊英は家族を含む支部隊全員を集めて訓示をし、青酸カリを与えて「功ならずんば則ち仁となる」よう集団自決を強要した。自らは逃亡先でソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク軍事裁判で18年の刑に服した(西俊英の供述調書と静岡県在住の元「六七三」少年兵の聞き書きによる)。今は緑に囲まれたのどかな景色が広がるが、こんなところにも関東軍細菌部隊の脅威が及んでいたのである。

      元慰安婦・文明金さんは今

 かつて孫呉には常時、慰安婦が50人おり、その多くが朝鮮人の女性だった。今年83歳の文明金さんはその中の一人だ。朝鮮半島の慶尚南道から孫呉に来たときは18歳。だまされて来たのだと言う。それから十年もの間、孫呉の将校用軍人会館(現存)で慰安婦として働かされた。

 日本の敗戦後、文明金さんは尹さんという地元の農民と結婚し、黒竜江河岸の人里離れた朝鮮族の村で30年ほど暮らした。慰安婦だったことは直隠しに隠したが、なぜか子供はできなかった。尹さんに先立たれた後、孫呉鎮の老人・曲春喜さんと再婚。その曲さんも二年ほど前に亡くした。身よりのなかった彼女は地元の老人ホーム・腰屯郷敬老院に引き取られた。

 文明金さんの不幸な過去を洗い出し、救援したのが、前述した楊柏林会長だ。彼女は生みの親の風貌や郷里の様子を、昨日のことのように覚えていた。楊会長はそれを頼りに韓国側に打診し、ほどなく朗報を得た。文明金さんの弟さんと妹さんが名乗りを上げたのである。筆者が腰屯郷敬老院を訪れた時、彼女は両親の墓参りと肉親との再会のため、故郷の韓国へ向けて旅立った後だった。面会は残念ながらかなわなかった。

 元慰安婦・文明金さんの人生と運命は、そのまま植民地だった朝鮮半島の歴史に重なる。故郷が解放と独立を勝ち取った後もなお、彼女は暗い過去を背負いながら、異国の地で人知れず寂しく暮らさなければならなかった。

 日本の敗戦から半世紀以上が経った。ややもすれば風化しがちな戦争の爪痕――。「しかし孫呉の人たちにとって、あの戦争が『過去の出来事だった』と言える日は、まだ先になるでしょう」。そう語る楊柏林会長の言葉が、今も深く胸に残っている。(2001年8月号より)