老舎とノーベル文学賞

                      文潔若

 
 

 老舎は中国の著名な現代作家である。有名な小説『駱駝の祥子』『四世同堂』や戯曲『茶館』などで、中国ばかりでなく世界の読者の心をとらえてきた。しかし、1966年に始まった文化大革命で、いわゆる「造反派」の迫害と侮辱に耐えきれず、その年の8月25日、入水自殺した。彼の死は中国の文学にとっても、世界の文学にとっても、大きな損失であり、いまもって忘れることはできない。

 老舎がなくなって今年は35周年。老舎と親交のあった著名な作家の蕭乾の妻で、翻訳家の文潔若はこれを記念して一文を書き、人々にあまり知られていないエピソードを披露した。

 1978年、ノルウェーのシノロジスト、エリザベス・エイドは、夫の蕭乾の長編小説『夢の谷』を研究するため、彼と手紙のやりとりを始めた。翌年の春、エイドは「イプセンと中国」について研究するため、中国にやって来た。

 当時、私と蕭乾は北京・天壇の南門近くの団地に住んでいた。長年、「右派」のレッテルをはられていた蕭乾は、この年の3月、名誉回復したので、社会的な活動がだんだん増えてきていた。だからエイドがわたしの家に来るときには、とくに彼にも家に帰ってきて、遠来の客をもてなすのを助けてほしいと頼んだのだった。

 客が来る前に蕭乾は、「君はできるだけ口をはさまずに聴く方がいいよ。そうでないと、思考の回路が切れてしまうから」と私に言った。

 どうしてそうなったかは分からないが、話をしているうちにエイドが突然、話題を変えて、老舎は亡くならなければもう少しでノーベル文学賞を受賞するはずだった、と言い出した。彼女が英語でこう言ったのを今でも覚えている。

 「あの年、ノーベル文学賞を中国の作家の老舎に授けることは決まっていました。しかし調べてみたら、老舎は八月に死去していたことがわかったのです。ノーベル文学賞は生きている人にしか贈られないという規定があり、それで別の人に授けられたのです」

 蕭乾はかつて私に「沈黙とは奥の深いものだ」と言ったことがある。だからエイドのこの話を聞いても、彼はとくに反応を示さなかった。傍らで聴いていた私も、声を出さなかった。

 もし私が喜んで、すぐに根ほり葉ほり尋ねたとすれば、初めて会った外国の賓客に軽蔑されてしまうかもしれない。彼女は心の中でこう考えるのではないか。「中国人はもともとノーベル文学賞を獲得したいと熱望して来たが、まだ手に入らなかったノーベル賞でさえこんなにも興奮するのか」と。

 だが私は、黙っていることができず、老舎の長女の舒済にこのことを言ってしまった。舒済の事務室は当時、私の事務室のすぐ隣にあった。そして四百字足らずのメモを書いて渡したのだった。

 文革中、いったいどれほどの人が迫害されて死んだか、知る由もない。しかし、疑いなく老舎の死が、もっとも国の内外の人々を震撼させた。一1966年の10月1日に早くも香港で発行されていた英字紙『ホンコン・スター』がこれを報じ、翌67年には日本の作家、水上勉が老舎を追悼する『コオロギの壺』という文章を書いた。

 スウェーデンは1950年に中国と国交を樹立し、北京に大使館を開設していたので、ノーベル文学賞選考委員会が1968年になってはじめて老舎の死を知ったというのは、私には信じられない。エイドが蕭乾に言った「ノーベル文学賞を老舎に贈ることを決めた」という「その年」は、1966年を指しているのだと私は考える。

 私は老舎と二度会ったことがある。はじめは50年代の初めだった。人民文学出版社の同僚で、詩人の方殷が師範大学付属の女子中学校の女教師と結婚することになり、婚礼が、その学校の大講堂で挙行された。会場に早く着いた私は、運動場に入ってきた小型乗用車から老舎が降りて来るのを見た。彼はおそらくアメリカから帰国したばかりで、洋服に革靴という姿で、物腰はあか抜けていた。婚礼の主宰者として、晩婚の二人のことをユーモアたっぷりに話し、出席していた女学生たちは笑い通しで、雰囲気は大いに盛り上がった。

 二度目は1965年5月で、中国作家代表団が訪日を終えて帰国し、中国文学芸術界連合会の講堂で報告会を行ったときだ。劉白羽がまず発言し、詳しく、すみずみまで行き届いた話をしたあと、老舎の番になった。

 老舎は悠々迫らず、こう切り出した。「話すべきことは、(劉)白羽同志がすべて話してしまった。私は裏話を少々することにしよう」

 会場の雰囲気はたちまち高まった。1950年9月に仕事を始めてから、私はこんなに生き生きとした報告を聞いたことがなかった。私はそれを細かくメモしたが、残念なことに文革の時代の「殴打、破壊、略奪」の被害を受け、家の中の品物とともにメモはすべて無くなってしまった。

 老舎のような才気にあふれ、特色に満ちた作家にとっては、他人の後について脚本通りにものを言うようなことは厭だったのだろう。だから即興で話したのだ。当時の我々のやり方は、個性を殺し、特色を扼殺するやり方だった。

 中国には、老舎のような世界的な作家がいないわけではないが、残念なことに、彼が「四人組」とその手先によって死に追いやられた。この悲劇を我々は深く考えなければならない。

 老舎の死は悲壮な死であった。彼は現代の屈原である。(2001年8月号より)