チベット画大師
アムド・チャンパ氏を訪ねて


       文 写真・温普林(ドキュメンタリー作家)

 

パンチェン大師像とともに
(アムド・チャンパ氏提供)
 

 チベットでは、宗教を題材とした重要な絵画には、作者の名前をつけないのが慣例となっている。有名な寺院宮殿のポタラ宮やノルブリンカの壁画は、歴史を刻んだ貴重な文物として称えられているが、作者たちのことを知る人は少ない。

 その一人が、安多強巴氏(1914〜)である。中国中央テレビ局(CCTV)は1997年、文芸番組「美術の星空」で、チベットのこの百年を絵画にしるしたチベット画大師・アムド・チャンパ氏を紹介した。このすぐれた30分のドキュメンタリー番組は、同局の国際チャンネルでも英語訳が放送され、世界の注目を集めた。

        美しく大胆な構図

 彼は1914年、青海省の尖扎県に生まれた。7歳のときに郷里の艾隆寺で出家し、独学で絵を学びはじめた。23歳になると拉卜楞寺で勉学を進め、42年、28歳でラサの哲蚌寺へ。その2年後、44年から、ラサを行脚する生活をはじめた。54年にダライ・ラマの宮廷絵師としてポタラ宮に入るまでの10年間、彼は人生で最も自由で、楽しい時を過ごしたという。またその間に、後の師僧となる更敦群培氏と知り合った。彼の人生や芸術に、きわめて大きな影響を与えた人物である。

 師僧・ゲンドン・チュンペイ(1903〜51)は、現代チベットにおいては異色の僧侶で、歴史から仏学、芸術、論理、言語、地理におよぶ多くの著書をのこした。彼が記した『白史』は、チベット史書のなかで初めて、神話性がなく科学的に分析された良書と評価されている。また彼は天才的な画家でもあった。しかし、当時のチベット政府に共産党とのかかわりを問われ、投獄されて、憤懣を覚えつつも他界した。生前は、ラマ王国の虚偽の本質を見ぬき、その行く末を案じていた。彼の言動は自由奔放で、礼法にはあまりこだわらなかった。アムド・チャンパ氏は、彼のこうした思想観念だけでなく、絵画の様式から色彩、人物の造形にいたるまで、深く影響されたという。


吐蕃三大王の壁画。ゲントン・チュンペイ氏の史書により、服装に中世ペルシア風の色彩がとられた

ポタラ宮を仰ぐ校舎
の前で学生たちと

 アムド・チャンパ氏が描いた、統一王国・吐蕃(今のチベット地方)を樹立した三大王(祖孫三法王)、つまり松賛干布、赤松徳賛、熱巴巾の肖像画をいくつか見ると、そのタッチは、師僧のものとほとんど変わらない。つまり、ソンツェン・ガンポ王がいずれも赤い絹を頭に巻き、五色半月形の錦のマントをはおり、つま先が反りあがった革靴をはく、といった中世ペルシア風のふんい気をたたえている。

 師僧の教えにより、アムド・チャンパ氏は当時、世俗的な宗教画を多く描いたが、残念ながらその多くは失われてしまった。今はただ、チベット仏教の「白度母」の立像から、当時の画風をうかがうだけだ。宗教画ながらも、大胆な構図には驚かされる作品だ。その美しい顔かたちになまめかしい姿態は、まるで「現代的な美女」である。青いバックに後光が描かれ、白度母の高貴な美しさがよく表されている。毒蛇に襲われた時に、チベット仏教の「度母経」をひとたび念ずれば、度母が現れて蛇を退治するという神話に基づいている。

 アムド・チャンパ氏が描いた度母は、イタリアの画家ボッティチェリの『春』と並べられるばかりか、イタリア・ルネサンス期の画家ラファエロのような前衛的な趣もある。その創作と思想に、かつてチベットで一時的にはやった欧州文化の影響があったことは間違いない。実際、彼の創作のインスピレーションは、50年代に見た、一枚のステンドグラスからきているという。

      毛主席の姿をタンカに

 1954年、漢蔵連合工作委員会(チベット工委)は、北京で開かれる第一回全国人民代表大会(全人代)のダライ・ラマとパンチェン・ラマの出席手続きを行った。チベットの有名な政治家・平措旺階(注)の依頼を受けたアムド・チャンパ氏は、タンカ(仏像などを描いたり刺繍したもの。紙、絹地、綿布などを使う)の様式で毛沢東主席の肖像画を描き、ダライ・ラマの北京行きの土産とした。

 毛主席の肖像画は、重要な史実を検証している。つまりダライ・ラマとしばしば対立したパンチェン・ラマが同年、一時的に和解し、ともに北京へ赴いて新中国の指導者・毛主席と会見したことである。

 そのタンカは、純金の額縁に収められている。描かれた毛主席は、黄緑色の中山服を身にまとい、同じラシャ生地の帽子をかぶって、右手を大きく振っている。堂々たる恰幅の毛主席は、活力に満ちている。バックは中華人民共和国の国旗で、毛主席の足元には白玉石の欄干が描かれている。その周りには僧侶や民衆の暮らしが描かれ、主席の絵とよく調和している。最下部の横長の絵は、雪山を背景に、漢民族とチベット族が団結して、帝国主義に打ち勝つ場面を示している。全体的に豪勢かつ力強いデザインで、当時とすればかなり前衛的なものだった。当時の人々がそれを見てどんなに胸躍らせたか、容易に想像できるだろう。

毛沢東主席のタンカは一九
五四年に完成。当時の中国
では前衛的なデザインだった

 こうしてアムド・チャンパ氏はポタラ宮に招かれ、54年8月にはダライ・ラマの同行で北京へ赴いた。55年、内陸部からチベットへ戻り、正式な宮廷絵師となって、ポタラ宮の措勤大殿に掲げるダライ二代のタンカを描いた。

 56年、ダライの夏の離宮ノルブリンカで、壁画の『釈迦説法』と『権衡三界』を描いた。この二つの作品で、チベット画壇に確固とした地位を築くことになる。

 そのひとつ『釈迦説法』は、中央に一本の巨大な菩提樹が描かれ、その下に釈迦牟尼仏が結跏 座して、ほほえみながら5人の弟子に説法する図だ。風景は、熱帯地方のインド・ガンジス川流域。西洋画に見られる遠近法をとり入れ、広い空間と明確なコントラストにより、遠近関係を正しく表現している。画面手前には頂礼する信者たちが、また両側には修行僧たちがいる。林のなかには守護神と修行者が見え、はるかには雄大な山脈が続く。黄金色をベースにしており、全体的につややかな光沢がある。古典的なふんい気があるため、見る者にヨーロッパ・ルネサンス期の宗教壁画を連想させる。

 もうひとつの『権衡三界』は、アムド・チャンパ氏の最高傑作だと評されている。歴史を題材にとった壁画で、数十人もの歴史上の人物――たとえば、クツ厦政府の大臣、大徳ラマ、民国代表、天上の神々、前世の祖師など――が中央法台の14世ダライの周りに集まっている。


ノルブリンカ宮
の『釈迦説法』

アムド・チャンパ氏の画風を代表するタンカ。観音菩薩の容姿を写実的に表している

「白度母」はまる
で現代的な女性像

 それは、ポタラ宮壁画(5世ダライが清の順治帝に謁見したときの模様が描かれる)の手法と同じだ。異なる点は、アムド・チャンパ氏がより写実的に描いていること。それにより作中人物は、地位職業だけでなく性格から特徴にいたるまで、実にこまかく表現された。一人ひとりの顔が、肖像画の傑作なのだ。チベット史上の重要な人物がリアルに描かれたことで、この作品は芸術の範疇を超えて、時代を検証する「歴史絵巻」となった。チベット現代絵画の誕生をしるし、その後のチベット絵画の発展に大きな影響を与えたのだ。その50年後、チベット自治区美術家協会の韓書力主席と于小東氏らが描いた大型油絵『十一世パンチェン座床慶典』からは、『権衡三界』の色濃い影響がうかがえる。

 チベットの悠久の歴史は、アムド・チャンパ氏が関心をよせる素材だ。出家以来の長年の修行により、彼は「観想」(瞑想)することで、歴史をみきわめる力をつけた。こうした能力を持ったため、59年に(ダライ集団が)反乱をおこした際、政治の行く末を見通して、反乱と逃亡の隊伍には入らなかった。ダライ集団からの催促が何度もあったが、仮病をつかってとどまったのだ。

 その後、彼はチベット地区美術家協会に加盟し、初代主席に選ばれた。いまは主席を退き、名誉主席の称号をもつ。「文化大革命」時代はやはり苦汁をなめたが、その才能が高く評価されたほか、毛主席の肖像画を毎日描いたことで、大きな災難は免れた。

 アムド・チャンパ氏は「当時は、黒五類(地主、富農、反革命、悪質、右派)分子だとされましたが、それでも多くの特権があった。なぜなら、新時代の指導者を描いていたからです」と静かに当時をふりかえる。(全文は本誌をご覧ください)

      学校つくり後継者を育成  

 90年代に入り、自らが年老いたと感じたアムド・チャンパ氏は、その足跡を後世に伝える学校をつくろうと努力した。何度も挫折しそうになったが、数年後ついに政府の支持を受け、アムド・チャンパ私立美術学校を創立。長年の夢を実現させた。

 しかし学校を創立したものの、資金はなく、校舎もなかった。そこで臨時的に、ポタラ宮の下にある建物の最上階を借りて校舎とした。建物はもともとチベット軍の司令部だった。宿命的なことには、50年代はじめ、この部屋の主だったチベット軍司令官の拉魯・次旺多吉氏は、ラサ市の八廓街(バルコル)で、ラサ入りしたアムド・チャンパ氏を最初に目にとめた人物だった。彼は、自分の肖像画のタンカを作ってもらったのだ。

 アムド・チャンパ氏は今、そこで肖像画を教えている。学生は30人あまり。ラサ出身者が多いが、なかには、中国東北地方からきた瀋陽魯迅美術学院の卒業生もいる。ラサでの勉強はすでに一年を超えるという。また、ドイツの女子学生もタンカの制作を学ぶために、その名を慕ってやってきた。タンカを学ぶ女性は、きわめて珍しいという。

 アムド・チャンパ氏が絵師となって60年近いが、この間、後世に残る無数の傑作をつくり上げてきた。それは、チベットの輝かしい歴史と栄光の跡をしるし、永遠の至宝、永遠の文化となったばかりでなく、たくさんの信徒の心を啓蒙した。その影響は、必ず後世に及ぶであろう。なぜなら彼が描く仏や菩薩たちは、いずれも深い慈悲にあふれ、その絵を見たチベットの人がみな「本当の仏と同じ」だと思うからだ。   

 彼の美と愛は、衆生を救う大乗仏教の精神をもつ。アムド・チャンパ氏は、チベットのこの百年を絵画で検証した第一人者であり、その一生を通して永遠の「チベット絵巻」を残したのである。

 (注)平措旺階=チベット共産党の成立に参加。レーニンと書簡を交わし、チベットの平和解放に重要な役割を果たして、毛沢東主席に高く評価された。(2001年9月号より)