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ラサの黄色いレストラン
チベットのラサについたその日、有名なバルコル街(八廓街)を見に行った。 「ラサに来て、ジョカン寺(大昭寺)とバルコル街を見なければ、チベットに来たことにはならぬ」と言われる。バルコル街は、ジョカン寺の塀をぐるりと囲んで建っている。幅七、八メートルの石畳の道の両側に、古い店やにわか造りの露店が並び、チベット独特の工芸品が店頭に並べられている。
煙が立ち込める街は、「酥油」(牛、羊の乳を煮えつめて取った油)の強烈な匂いにあふれている。敬虔な信者は身体を投げ出して「五体投地礼」をする。その後には、泥水の中に長い痕跡が残るのだ。手で「マニ車」をぐるぐる回し、口で経を唱えながら、参拝者は右回りに大昭寺の外側を回り続ける。寺院の中から時折、大きなラッパの低い音色が聞こえてくる。 「転経」の人々の流れに入り、いっしょに黙々と前へ歩いていく。その雰囲気、その敬虔さ、異なる文化の強烈な衝撃力……。いつまでも心に残る。 人波でごった返す街には、店や露天がごたごたと並んでいる。その街の東南の隅に、黄色い小さな建物があった。この街の建物のほとんどは白い壁だが、この建物だけが黄色なのでとても目立つ。看板にはローマ字で「MAKYE AME」「Restaurant」と書かれていた。「MAKYE AME」とは、チベット語で「清き乙女」のことで、チベットの雰囲気にあふれた有名なレストランなのだという。 レストランの経営者はチベット族の兄と妹である。愛想のいい兄が主人で、さして大きくはないものの、特色のあるレストランの中を案内してくれた。狭い階段を上がると、2階は7、80平方メートルの部屋になっていて、窓側にいくつかのテーブルが並び、チベット式のレストランになっている。窓の外の喧噪と、ここの静かな落ち着いた雰囲気は、好対照である。
部屋の中央には洋風のソファーとチベット風の裝飾品が置かれている。入り口近くのバーには、手の込んだ木彫りのカウンターがあり、その上にチベット風のランタンが掛けられている。入り口の向かい側の壁に、「チャンバ仏」の仏画が掛けられている。「チャンバ仏」はチベットのシガズェ地区にあるタシルンポ寺にある有名な大仏で、その高さは26・2メートルもある。かたわらの黄色い板壁には、昔のチベットを写した黒白写真が、配置よく並べてかけられている。 三階の屋上に通じる通路の脇に、数台のパソコンが置いてあって、いつでもインターネットを使って資料を調べたり、Eメールを送ったりすることができる。 店の中には欧米から来た客が数人いた。主人は彼らと挨拶を交わしてから、私たちとざっくばらんな話を始めた。 主人の名前は、ゼラン・ワンチンといい、生粋のチベット男性で、この黄色い建物に関する物語を紹介してくれた。 言い伝えによれば、第六世ダライ・ラマのツァンヤン・ギャムツォがこの黄色い建物に泊まったことがあるという。ここでツァンヤン・ギャムツォは一心不乱に詩を作ったが、月のようにあでやかな娘に出会って、こんな詩を書いたという。 「美しい月が東方の高い山の頂に昇ると、マジェ アミ(清き乙女)の笑顔が、私の心中にゆっくりと浮かんでくる」 長年の風雨に耐えてきたこの建物は、レストラン、書店、派出所などと使い方が変遷してきた。一時は二人の米国人の若い娘が、ここで洋食のレストランを経営していたこともあった。そしていまは、ゼラン・ワンチンさんのものになったが、彼がもっとも苦労したのは、どうやってチベットの伝統文化の色彩を色濃く残しながら、チベットの家庭のような温かい店を作るか、だったという。
苦労の甲斐あって今は、各地からの客が来て評判がよく、観光客ばかりでなく敬虔なチベット仏教の信徒も、この店の前を通る人はみなこの黄色い店を見上げるのだ。 多くの客は、友人の口コミでやって来る。ヨーロッパや米国、カナダ、日本、韓国などの海外からも、北京、上海など国内からも来る。客はこの陽当たりの良い黄色の建物の中に入って、くつろいでおいしいチベット料理を食べたり、インドやネパールの料理や自家製のデザートを味わったりする。そして最後に、甘く香ばしい「酥油茶」(バター茶)を飲んで、すっかりリラックスするのだ。窓辺に寄り添い、外を眺めながら、バルコル街の人の流れやこの街にまつわる物語を静かに回想するのも、また味わい深いものがある。 かつてこの店に来る客の中に、フランスからの母と娘とイタリアからの母と娘の四人がいた。四人はチベット旅行で道連れとなり、ラサに来て一カ月半も滞在したが、その間、「MAKYE AME」をまるで自分の家のようにして、ほとんど毎日、ここで読書したり、インターネットを使ったり、文章を書いたり、美味しい夕食を自分たちで作ったりしていた。
また、米国・コロラド州から定年退職してやって来た技師は、ラサに七カ月もいていたが、毎日ここで食事をした後、机に向かって本を書いていた。そのうち、ここが自分の家のようになり、わざわざ道具と材料を買ってきて、レストランの建物や設備を修理してしまった。 時とともに「MAKYE AME」の名はますます多くの人々に知られるようになった。別れた際に主人はそっとこう言った。「北京でも『MAKYE AME』の支店を出すつもりです。そのときはぜひどうぞ」 北京の「MAKYE AME」はどんな姿になるのだろう。やはり黄色い建物になるのだろうか。(2001年9月号より) |