「真由美」が変えた人生航路
               中野良子(女優)

 アクション大作『君よ憤怒の河を渉れ』(一九七六年製作、中国題名『追捕』)が、日本映画の第一号として中国で公開されてから二十年余り。明るく奔放なヒロイン役を演じ、中国でも熱狂的な支持を集めた女優・中野良子さんに、中国との出合いと今後の活動などについて熱く語ってもらった。

 昨年久しぶりに訪れた北京の空港で、いきなり若い女性から「真由美!」(ヒロインの名前の中国読み)と声をかけられました。映画が中国で公開された79年には、まだ生まれていないか、幼かったはずの女性です。思わず胸が熱くなりました。

 私が初めて訪中したのはその年の夏、第一回日本映画祭代表団の一員としてでした。飛行機の中で英字紙をめくっていた私に、その後の出合いが自分の人生を大きく変えようとは、知る由もありませんでした。

 空港に降り立ち、少し照れながら通訳さんの教え通り「ウオーシーチェンユウメイ(真由美です)」と自己紹介すると、突然うなりのような歓声が沸き起こりました。もう驚きのあまり心臓が飛び出しそう、言葉さえ出てきません。それから私たち代表団は、行く先々で想像を絶する熱気に包まれました。上海の虹口公園では「チェンユウメイ」を一目見ようと何万人ものファンが押し寄せ、激しい人波に揉まれました。滞在中は「チェンユウメイ」という嵐のような声が鼓膜にこびり付いて、夜も眠れなかったほどです。

 『追捕』フィーバーは80年代半ばまで続きます。都会では、映画の中の私の帽子やファッションが流行ったそうです。私に向けられたあの無数の瞳の輝きは、何だったのでしょう。「『追捕』は文革の嵐にさらされ、渇き切っていた心を潤してくれた慈雨だったのよ」と後で中国の方に教えられました。当時は答えがわからないまま、ひたすらそれに応えようと必死でした。中国各地のさまざまな催しに招待され、いろんな方に温かく迎え入れられました。時にはまるで日本の代表であるかのように「日本はどんな国か」「日本はなぜ侵略戦争を起こしたのか」などと質問責めにも遭いました。

 

 

 中国のある戦争記念館で、蛮行を働く日本軍の記録映画を観たことは忘れられません。ショックのあまり腰をぬかし、立ち上がれなかったくらいです。「負けてはいけない。私はその反対のことをやるんだ」と心の中で叫びながらやっとの思いでバスに乗り、一人で声を上げて泣きました。

 中国から帰ると、日本はまるで別世界でした。私が体験した胸の高鳴りと感動を皆に伝えたいけれど、どうしたらわかってもらえるのでしょう。深い孤独に陥りました。もうそれまでの単純な女優の生活には戻れない。「中国」そして「日本」の国と風土を真剣に考えないと、生きて行けそうにない。そこで猛烈に勉強を始めました。中国に出合って「チェンユウメイ」を背負わされ、また「日本」をも背負わされての、もう一つの人生の船出でした。

 86年には中国の文化人らを日本に招聘し、共同シンポジウムを開催しました。学び合いこそが本当の相互理解につながると思ったからです。中国での衝撃的な異文化体験を生かし、私にしかできないことをと講演も始めました。95年には中国側と共同で、秦皇島に念願のソーラー型小学校を建設。同年にはまた国連文化大使としてニューヨークやワシントンに派遣され、東洋と西洋の相互理解をテーマに講演したほか、日本各地で「心と心のふれあい」「世界の中の日本の魅力」について語り続けました。「民族、文化、歴史の異なる人々がお互いに相手の在り方を認めながら国際交流を進めよう。ほかの文明との『間』に未来へのヒントが潜んでいる」――これからも女優活動と共に、このメッセージを世界に発信し続けたいと思っています。

 近年、中国の方に会う度に「私たちにもできる」という自信のようなものを強く感じます。経済力が向上し、北京や上海などは東京となんら変わらない国際都市へと発展しました。今後はさらに多様な国や文化と対話する余裕が出てくるのではないかしら。中国は自分の足で歩いてみないと理解できない国です。皆さんもぜひ、この果てしない大陸に足を運ばれることをお勧めします。(構成・金丹実)(2001年9月号より)