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老いてなお壮志やまず
少数民族地区の貧困とたたかう 四川省の西南部にある涼山イ族自治州は、標高が高く、山また山。交通は不便で、四川省で最も貧しい地方である。 垣本さんがここを初めて訪れたのは、1998年の4月だった。 「そのときは5日間滞在し、いくつかの山村を訪れました。そこで見たものは、農民の非常に貧しい生活でした」と垣本さんは回顧する。この地区の一人あたりの年間収入は、平均でわずか200〜500元(約3000〜7500円)しかなかった。多くの子供は学校に行けず、雪の日でも裸足で、着物は着た切りすずめ。
「やせ細った子供に出会いました。思わずポケットから飴をいく粒か取り出して、あげようとしたのです。ところがその子は、きっぱりとした表情で『いらない』と何度も言うのです。それを見ているうちに、自分の子供のころを思い出しました」 敗戦後、すべてを失った日本国民の生活は非常に苦しかった。「私も腹いっぱい食べたことはなかった。この子もきっと同じでしょう。しかしこの子は、食べたいからといって、人の施しを受けようとはしない。私は深く感動しました」 「一隅を照らす」という伝教大師最澄の名言がある。日の当たらないところこそ、救いの手を差し伸べなければならない、という意味だ。「私も大師の教えを守り、涼山の民衆を助けよう。東京や北京、上海の子供たちと同じように、貧しいこの子たちを学校に入れてあげよう」と垣本さんは決心した。 そのためにはまず豊かにならなければならない。幸いこの地には資源がある。これを利用して貧困脱出プロジェクトにボランティアで協力しようと決めた。自治州政府の支持を得て、涼山大学、四川大学及び日本の専門家とともに涼山地区の実地調査を行った。 その結果、この地区は自然条件に恵まれ、生態環境が非常に良く、気候は穏やかで、日照時間が長く、土地や水、空気がまったく汚染されていない、世界でも珍しいきれいな土地であることがわかった。だから汚染されていない農作物の試験栽培に最適である。 そこでまず財団代表の矢崎氏が命名した信頼花卉農園を手はじめに、日本の技術を用いて、日本の薬用花卉の新種であるベニバナとユリを栽培し、成功した。これに続いて日本の最も美味しいコメを試験栽培し、もしこれが成功すれば、中国政府の協力を求めてその栽培を広めることにしている。 涼山は海抜3000メートルもある高地で、山道は険しく、車で行けないところも多い。だが垣本さんは文句も言わず、若い人と同じように毎日山道を徒歩で歩き回った。糖尿病を患っているにもかかわらず、毎日、田んぼに下りて指導を続けた。過労のため倒れ、四昼夜も昏睡したこともあった。医者が点滴し、休養を勧めたが、すぐまた仕事に戻ったという。 中日仏教交流に尽くす 垣本さんの中国との往来は、1972年の中日両国関係の正常化とともに始まった。両国の国交正常化を記念して彼は、『郭沫若選集』十八巻を出版した。これを契機に郭沫若(元・全国人民代表大会常務委員会副委員長)と親交を結んだ。 天童寺は唐代に建てられた有名な禅宗の寺で、1168年以降、日本の僧の栄西、道元が前後してこの寺に来て、仏法を求めた。栄西は帰国後、曹洞宗をおこした。このため曹洞宗の信徒は、天童寺を曹洞宗の源として敬っている。 国清寺は中国仏教の天台宗の発祥地である。隋の開皇18年(598年)に建てられ、唐の貞元20年(804年)、日本の僧、最澄が国清寺に来て、天台宗の高僧、道邃から仏教の教義を学んだ。最澄は翌年帰国して日本の天台宗を開いた。このため日本の天台宗の信徒は、国清寺を発祥地として敬い、よく参拝に来るのである。 文化は友好の尖兵なり 垣本さんは学生時代に、中国文化と漢方医学を専門的に紹介する雄渾社の創業に参与した。中国文化は日本文化の源であり、東方文化思想が中日両国の友好往来の基礎となっていて、中国と日本が相互信頼関係を樹立するためには、互いの文化に対する理解が必要であるという考えに基づいて垣本さんは、中国の仏教、漢方医、漢方薬、陶磁器、工芸美術、少数民族、服飾などの中国文化を紹介する本を長年にわたって出版してきた。 とくに、彼が主宰して出版した『原色中国本草図鑑』は、1600種の常用薬用植物を収め、その一つ一つを原色通りに描いたものだ。正確さと学術的な水準を確保するため、中日両国の植物学者、薬物学者、画家六百人が編集と審査に当った。 一枚の植物の絵を作るのに必ず植物学者、薬物学者、画家の三者が現地調査し、画家が描いた原色の原画を植物学者と薬物学者が鑑定し、確認してからはじめて脱稿する。できあがった『本草図鑑』は、当時の衛生部の銭信忠部長が監修している。
このほか25年間に、『黄帝内経素問・霊枢』全25巻を翻訳出版し、中国民航局の機関雑誌『中国民航』の創刊にも関与した。中日国交回復十周年を祝うために中日両国政府の協力を得て、中国で造られた機関車「前進号」と「人民号」などを横浜に運んで「鉄道博」を催した。現在、二両の機関車は、兵庫県相生市に展示され、中日友好のシンボルとなっている。 手広く経済協力も 中国が改革・開放政策を始めたばかりのころ、多くの人はまだ半信半疑だったが、垣本さんは早くから中国のプロジェクトに投資を始めた。中国人の生活水準が改善されるにつれ、娯楽に対する考え方も必ず変わると確信して、1984年に、中国と協力して北京に二カ所の娯楽施設を率先して建設した。「北京遊楽園」と「九竜遊楽公司」である。 中国で老齢化が進むと見て取ると、漢方薬の老衰予防効果に着目して、朝鮮人参の原産地の長白山に老衰予防の保健製薬工場を建てた。また中国の近代化には、迅速で信頼できる情報が絶対必要だと考えて、中国経済情報センターの建設を計画している。 84年に、垣本さんが会長をつとめる日本日中総合開発株式会社が発足してからこれまでに、中国との協力プロジェクトは北京、上海、大連、天津、西安、青島など数十の都市で医薬、電子、通信、機械、農業、娯楽などの広い範囲に及んでいる。 今年70歳になった垣本さんだが、「涼山の子供たちのために、まだまだがんばらなければ」と意気軒昂である。(2001年10月号より) |