北京原人とともに歩んだ人生
  古人類学者 賈蘭坡氏をしのぶ

     
  文 張春侠 写真提供・賈ケ彰

   1936年に発見された北京原人の頭蓋骨は、東アジアの人類の進化にとって確実な物的証拠となった。それを発見したのは、中国の古人類学者、賈蘭坡氏である。世界的に知られるこの人物は、今年7月8日、93歳の生涯を終えた。あの歴史的な発見から65年、北京原人の発見者には、あまり人に知られていない数々のエピソードがある。  

         「俺の骨を壊すな」

 1908年11月25日、中国の河北省玉田県ミマ家塢にある普通の農民の家に、賈蘭坡は生まれた。幼い時、彼は母方の祖母のいる村で、数年間、私塾に通って勉強した。だが戦乱はこの村にも及び、これを逃れて彼の一家は北京に移住した。当時の賈蘭坡は13歳。父親はほどなく彼を高等小学校に入れて勉強させた。

 だが賈蘭坡の家はひどく貧しかった。このため彼は1929年、高校を卒業したが、それ以上学業を続けることはあきらめざるを得なかった。そこで21歳の賈蘭坡は、仕事を探しながら北京図書館で独学するようになった。彼は毎日、一番早く図書館にやって来て、書架や新聞の綴じ込み棚から雑誌や新聞を取りだし、一日中これを読みふけった。彼がよく読んだのは『科学』『旅行者』などの雑誌で、大自然の神秘にすっかり魅了されたのだった。

生前の賈蘭坡

 1931年、賈蘭坡は中国地質調査所の試験に合格し、訓練生になった。訓練生の地位は所内でもっとも低く、「先生たち」の末席に連なって、上の人たちと食事をともにすることができるだけで、それ以外は、骨の折れる仕事ばかりをしなければならない。例えば発掘用品を買いそろえ、外部から訪れる学者を案内して各地を回り、地質を調べ、彼らが採集した標本を背負い、労働者たちといっしょに化石の発掘をするのである。


北京原人の頭蓋骨の破片を発見し、綿入れを脱ぎ捨てて地面に腹ばい、一心無乱に発掘する賈蘭坡
 地質調査所に来たばかりのころの賈蘭坡は、考古学や古生物学の知識がまったくなかった。化石を掘り当てるたびに、虚心に労働者たちに教えを請うた。労働者たちはこころよく、「これは豚の化石だよ」「これは鹿だ」「これは羊」と教えてくれるのだった。

 当時、中国における古人類学や古脊椎動物学はようやく始まったばかりで、国内には哺乳動物に関する教科書さえ一冊もなく、1885年に英国で出版された『哺乳動物の骨格入門』という英語の本を誰かが借りて来ると、それはみんなの宝物のように珍重された。夜中に、ほかの人がこの本を読まない時に、賈蘭坡はこの本を読んだ。だが、理論的な基礎がなかったため、読み始めたときは大変苦労をした。はじめは一日で半ページか一ページしか読めなかった。英語の基礎もなく、そのうえ専門用語が多過ぎて、辞典にも載っていない単語もあり、人に教えてもらいながら読むしかなかった。

 動物の骨格についてもっとよく理解するため、賈蘭坡は労働者たちとともに動物解剖の実験をした。ときに労働者たちがそそっかしいやり方でしくじると、彼は傍らからいつもこう叫ぶのだ。

        「俺の骨を壊すな」

 解剖が終わると賈蘭坡は、改めて骨を煮たあと、さらにカセイソーダで煮て、骨の油を取り去り、それから骨を一つ一つ組み立てて完全な骨格にし、異なる部分に別々の色を塗り、書物にある名前と一つ一つ対照して、その名前を紙に書いて骨の上に貼り付けるのだ。

 ある日彼は本屋で、米国科学院アカデミー会員のオズボーンが書いた『旧石器時代の人類』という英文の本を見つけ、飛び上がって喜んだ。しかし値段を尋ねると、なんと彼の月給の三分の一もした。考えに考えた末、買わずに家に帰った。だが、帰宅後もあれこれ考え、翌日ついに決心して、走って本屋に行き、その本を買った。

 のちに賈蘭坡は協和病院で解剖学を研修したが、その時いつもポケットにヒトの手の骨を入れていた。そして暇なとき、ポケットに手を突っ込んで骨をまさぐり、一つ一つの骨がどこの骨かを判断した。判断が当たれば反対側のポケットにその骨を入れる。間違えればもう一度やり直す。こうした訓練を重ねたすえついに彼は、左右の手の骨を正確に判別し、豆粒大の人骨と動物の骨も判別できるようになった。
  3個の北京原人の頭蓋
  骨を発見した、当時わ
  ずか28歳の賈蘭坡

 だが当時、中国地質調査所北平分所の所長だった楊鐘健は、そんなことは信じられないと言って、骨を紙で包んで、紙に人さし指くらいの小さい穴をあけ、賈蘭坡に中の骨を判別させた。賈蘭坡は穴を透かしてちょっと見ただけで、正確にその骨を判別してしまった。

 懸命の勉強とたゆまぬ努力の結果、賈蘭坡は1934年、「技佐」(大学の講師に当たる)の職に昇任し、周口店での仕事を指揮し、責任を持つようになった。

        三つの頭蓋骨を発見


賈蘭坡が発見した三
つの頭蓋骨の模型
 1936年、地質調査所は北京の南西にある周口店で、人類の化石を探す発掘作業を続けていた。しかしわずかばかりの人類の歯以外は、なんら収穫はなかった。もし今後六カ月以内に重要な発見がなければ、米国のロックフェラー基金は、周口店発掘に対する資金援助を中止することになっていた。

 人類の化石は見つからず、もう手の打ちようがないと関係者たちが考え始めた時である。10月22日午前10時ごろ突然、賈蘭坡は二つの石の間に、人類の下顎骨が露出しているのを発見した。彼はすぐ地面に腹ばいとなり、慎重にこれを掘り起こした。この重要な発見で、彼の確信は深まり、引き続き発掘を続けることが決定された。

 さらに11月25日午前9時半、同僚の張海泉が、発掘したクルミ大の骨のかけらを小さな手提げ籠に放り込んだ。これを見た賈蘭坡が「それは何だ」と尋ねると、張海泉は「ニラです」と答えた。「ニラ」とは「砕けた骨片」を意味していた。だが賈蘭坡がこれを手にとって見た。そして驚いて思わず叫んだのだ。「これはヒトの頭蓋骨じゃないか」

 すぐに骨の出た現場を縄で囲んで立ち入り禁止にし、豆粒大の骨のかけらも残さないよう、細かく丁寧に発掘を行った。そしてわずか50センチほど範囲から、多くの頭蓋骨の破片が見つかった。続いて耳の骨、眉の骨も出土した。正午までに頭蓋骨まるまる一つ分の、すべての破片が掘り出された。賈蘭坡はそれを事務室に持って帰り、まず骨をこまかく整理し、そして火にあぶって乾かし、一つ一つの破片をくっつけて復元した。
大きな岩にハッパをかけ、爆破しようとしている賈蘭坡(立っている人)

 周口店の発掘調査を点検するため、当時中国に滞在していた世界的に有名な人類学者、ワンデンライヒは、人類化石発見のニュースを聞いてベッドから飛びおり、大急ぎで服を着替えて、妻と娘を連れ、周口店に駆けつけた。「彼は興奮のあまり、ズボンを表裏あべこべにはいてしまったのですよ」と奥さんは述懐している。

 「北京の化石人類」の頭蓋骨を手にした時、このドイツ籍のユダヤ人学者の手はぶるぶると震えた。彼にはこの頭蓋骨の持つ価値がよく分かっていたからである。


頭蓋骨が出土した後、技術
者たち全員の記念撮影。後
ろ右から1人目が賈蘭坡
 1892年にオランダ人のユージン・デュボアがジャワ原人の化石を発見し、これが猿から人類に進化する「ピテカントロプス・エレクトス」だと判断した。しかしデュボアは、キリスト教会から厳しく責めたてられ、やむを得ず化石を金庫の中にしまうほかはなかった。しかも自分の意に反して、自分の説を否定したのである。

 だが、「北京の化石人類」が「北京原人」と判定されたことによって、人類が猿から進化したという事実が再び証明された。

 最初の発見に続いて賈蘭坡は、また二つの北京原人の頭蓋骨を発見した。最後に発見された頭蓋骨は、かなりよく整っていて、神経を通す大孔の後縁部や眉の骨、眼窩の外縁部までも保存状態が完全だった。

 わずか11日のうちに、原人の三つの頭蓋骨と一つの下顎骨、三枚の歯を発見したというニュースは世界を驚かせた。地質調査所は賈蘭坡の写真を百枚以上焼き付けて、世界各国の通信社に提供した。国際学術界は北京原人の発見を「古人類学の歴史において最も意義のある、最も感動的な発見」とたたえた。名もない小さな町だった周口店は、一躍、世界的に有名な場所となった。

 周口店に始まり、彼の眼はずっと人類の起源の研究に注がれた。そして有名な「藍田人」「丁村人」「許家窰人」などの化石を相次いで発見し、中国の旧石器時代に関する考古学の発展の基礎を定めた。

 1994年4月、賈蘭坡らは河北省陽原県で、数多くの古い石器と骨器を発見した。この発見は、人類の起源を4、5百万年も前にさかのぼらせるものであった。そればかりか、人類の発祥地はアジア――おそらく中国であるという説を確証する新しい証拠となった。米国や日本、カナダなどの新聞はみな「人類の起源の時間と場所が書き直される」という見出しでこの発見を報じた。

      北京原人の骨はどこに行った

 「生涯で最も気にかかっているのは、なくなった北京原人の頭蓋骨のことです。それがいつも私を悩ませているのです。……いまもってその行方がわからないのは、本当に悲しい」。90歳を超した賈蘭坡は、心を痛めながらこの世を去った。

 それは1941年であった。日米関係が緊迫し、北京原人の化石を北京の協和病院に置いておくのは安全でないと考えた中国は、当時の米国の中国駐在大使、ジャンソンに依頼して、しばらく戦乱を避けるため、北京原人の化石を米国に運び出すことを決めた。

 北京原人の化石はまずしっかりと白い木綿紙で包まれ、外を脱脂綿とガーゼでくるみ、その上を白い紙で包んだ後、小さな木箱に入れられた。そこに綿花をぎっしり詰めこんだうえ、最後には二つの白木の箱に分けて梱包された。そして安全を考えて、箱の上にはAとかBとかの文字を書いただけにした。

 化石は米国の海兵隊によって河北省秦皇島に運ばれ、そこから汽船プレジデント・ハリソン号に乗せて米国に運ばれるはずだった。しかし太平洋戦争が勃発したため、秦皇島に来る途中、ハリソン号は長江の河口で日本軍に撃沈されてしなった。その後、北京原人の頭蓋骨は行方不明となり、その行方はいまだに世紀の謎となっている。

 一日もはやく「国宝」である北京原人の化石を探しあてるため、賈蘭坡はいろいろ努力を重ねたが、みな失敗に終わった。彼の書斎には、60年にわたって北京原人の化石を探し求めたすべての資料がファイルに保存されている。その中には、当時協和病院を接収した日本軍の将校の写真、化石を探すために日本から中国に特派された者に関する資料、手がかりを提供する内外から来た手紙のほか、あちこちから集められた真偽のほどが定かではない情報や、荒唐無稽な伝聞資料さえ、みな保存されている。

 1998年の夏、賈蘭坡は14名の中国科学アカデミー会員と連名で、科学と進歩を愛するすべての人々に向け、力を合わせて北京原人の化石を探す今世紀最後の大捜索をしようと呼びかけた。しかし、化石はついに見つからなかった。彼は死んでも死にきれなかったろう。

 周口店の北京原人の遺跡は、歴史的価値が非常に高い。このため1961年、周口店は国の重点文物保護単位に指定され、1987年には「世界遺産」に登録された。

 しかし、資金不足が長い間続き、周口店遺跡の保護活動はずっと進まなかった。遺跡の修理は長く行われず、風雨や植物による自然浸食や、民間人の採石による人為的な破壊のため、この名高い古人類の遺跡は「危機に瀕した遺跡」になった。これは全く困ったことである。

 そこで賈蘭坡は、周口店遺跡の保護を呼びかけると同時に、ここに「古文化公園」を建設する構想を提案した。この構想は、遺跡の周囲に木や草を植え、50万年前の北京原人の生活――打製石器を造り、猟をし、果実を採集し、火を利用するなどの場面を生き生きと再現して、参観者を50万年前に戻った気持ちにさせるというものだ。

         故郷に帰った骨

 「怠けない」。これが賈蘭坡の座右の銘である。彼は自分の書斎を「半成斎」と名付けた。そう名付けたのは、自分の学識がまだ「なまはんか」に過ぎず、学問を極めるには進取の気概を持ち続けなければならないと、自分を戒めるためである。
八月六日、周口店の龍骨山に父母の遺骨を合葬する賈蘭坡の子、賈ケ彰と賈ケ蒔兄弟。(写真・馮進)

 晩年の彼は、緑内障と白内障を患い、老眼をかけたうえでさらに拡大鏡を使わないと字が書けなくなった。その文字もぐにゃぐにゃと曲がり、ときには字が重なってしまう。だが彼は、毎朝6時にはきっかり起きて、1日6時間の仕事をこなした。80歳になる前には四百余篇(冊)の学術著作を書き、80歳を過ぎた後も『お爺さんのお爺さんはどこから来たの』といった科学普及のための読物を数多く執筆した。

 晩年の賈蘭坡は、福祉事業にも関心を寄せた。90歳の誕生日に、30数名の中国科学アカデミーの会員や著名な学者とともに「緑の長城プロジェクト」を提唱した。これは中国の、とくに西北地区の生態環境を改善することを目的としたものだ。臨終に際し彼は、長男の賈 彰を呼んで、自分が果たせなかった願いを実現してくれるようと言いつけた。

 10平方メートルにも満たない狭い書斎には、賈蘭坡が一生かけて集めた周口店の人類進化に関する貴重な資料が詰まっている。かつてある米国人が、大金でこの資料を買おうとしたが、賈蘭坡は「これは個人のものではなく、中国のものだ」と、きっぱりと断った。だが、古人類の研究は清貧で孤独な学問なので、この学問を研究する人材に断絶が生じることを彼は心配していた。

 人類起源の謎の研究に打ち込み、北京原人を発見したその人は、この世を去った。千人を超す各界の人々が、この尊敬すべき老人に最後の別れを告げた。賈蘭坡の遺骨は二つに分けられ、生前の希望に沿って、一部は周口店の竜骨山に、一部は故郷の河北省玉田県ミマ家塢にそれぞれ葬られた。この二カ所はいずれも彼の故郷であり、死後に帰るべきところである、と賈蘭坡は考えていた。生前、彼はこう言っていた。「北京原人は人類の祖先であり、自分は北京原人の後見人である。だから死んだら周口店へ戻り、あの世から北京原人を守りたい」 (2001年11月号より)