世紀を越えた心の交流
中国人一家と日本の保母さん


                    文潔若

   ――これは有名な翻訳家の文潔若さんの思い出をつづったものである。67年前、文さん一家は日本に渡った。そして日本の児童教育家の海卓子先生に日本語を教えてもらった。そこで結ばれた縁は、今日まで絶えることなく続いている――編者  

 

1985年、筆者は約50年ぶり
に海先生(左)と再会した
 

 1934年七月、日本についたばかりの私たちは、日本語がわからなかった。そこで父は、わたしたちに家庭教師をつけて日本語を学習させた。家庭教師は海卓子先生といい、近くの麻布幼稚園の保母さんで、優しく、我慢強い日本の女性だった。

 彼女は中国語ができなかったので、日本語を日本語で教えるほかはなかった。だが、教え方がうまかったから、半年後には、四女の姉と私は言葉の壁を乗り越えて、それぞれ麻布小学校の1年生と3年生に編入できた。

 日本の学校は、一学年が三学期に分かれていて、私たちが編入したときは三学期に入っていた。だからまもなく4月1日になり、上の学年に進級した。

 私と姉が小学校に入ってから、さらにもう一人の家庭教師に来てもらった。彼は今野先生といい、補習塾を開いていたが、毎晩家に来て、私たちを二時間教えた。父は、海先生に、長女と三女と母の3人を教えるよう頼んだ。

 だが、姉たちは、聖心女子学院で英語を専攻していたので、その勉強に忙しく、時間がなかった。また40を過ぎた母にとっては、外国語を勉強するのは確かに難しいことだった。

 けれども、四女の姉と私はこの優しい日本のお姉さんが大好きだった。海先生が来ると、私たちはワッと押しかけていって、彼女が語る物語を聞いたり、彼女の後について童謡を習ったりした。「大人を教えるのでも子供を教えるのでも、とにかく海先生に無駄足を踏ませなければそれでいいのよ」と、姉たちは陰口をきいていた。

 弟の朴と概も、麻布幼稚園の梅組(年長組)と桃組(年中組)に入った。海先生が梅組の担当だったから、子どもの教育についてよく父と連絡を取っていた。翌年、朴は小学校に進学し、概は梅組に進んだ。

1934年から1936年まで、筆
者が通っていた麻布小学校

 麻布幼稚園は麻布小学校の付属で、小学校の裏にあった。ある日、一人の中国人の生徒が暴れだし、大騒ぎとなって、全校の先生や生徒をびっくりさせた。私も駆けて見に行った。その子は顔中を鼻汁と涙でいっぱいにし、海先生がその子を抱きかかえていた。その子は泣いて先生の和服の襟や袖をすっかり汚してしまったうえ、それでもまだ海先生をたたき続けていた。その騒ぎがどうやって収まったのか忘れてしまったが、海先生が終始にこにこ笑って、小さい声で優しくその子をあやしていたことだけは覚えている。

 1936年、東京で「二・二六事件」がぼっ発した。これは日本のファシストによるクーデター事件である。私たち家族は全員、この年の7月、北平(いまの北京)に帰った。1年後の1937年、日本軍国主義は全面的な中国侵略戦争を開始した。それ以後、海先生からの音信は途絶えた。

1935年当時、麻布幼稚園で
教鞭を海先生(前列右側)

 1985年6月、私は日本国際交流基金の研究員として日本を訪問した。東京についたばかりのころは研究活動が忙しく、他のことをする余裕はなかった。翌年の四月になってやっと海先生の電話番号を知り、すぐに電話をかけた。

 電話口に出た海先生に、私はいきなりこう切り出した。「海先生ですか。30年代に、文という中国人一家の4人の子供が麻布小学校を通っていたことをまだ覚えていますか」

 「もちろん覚えていますとも。あなたは何番目のお子さん?」。受話器の向こうから、海先生の歯切れのいい、はずんだ声が聞こえてきた。その声はまるで老人らしくなかった。

 「私は末の女の子です」

 「そうなの。あの一年生のお嬢ちゃんね。弟の朴君は元気? 概君は? お姉さんたちはお元気? お父さんとお母さんは」とたたみかけて聞いてきた。

 なんという記憶力の良さだろう。私は家族のことを一人一人説明した。

 もともと私は、半月後に開かれる麻布小学校の成立百十周年記念日に、きっと彼女も来るだろうから、その会場で会う約束をしようとしていた。

 「だめよ、それでは遅すぎるわ」と彼女は言い、一日も早く会いたい、というのだった。そこでちょうど4月25日、日本の初代の中国駐在大使、小川平四郎氏の講演を聴きに港区の国際文化会館へ行く予定があるので、その日の午前十一時に、会館の近くにある白金台幼稚園に行き、そこで会いましょうと約束した。当時、彼女は、その私立幼稚園の園長だったからだ。

海先生の著作

 不思議なことに、私は遠くから一目見て、庭の水道の蛇口からバケツで水をくんでいるおばあさんが海先生だとすぐに分かった。彼女は質素な服にエプロン姿で、まるで園長先生には見えなかった。半世紀の歳月が流れたのだから、眼鏡をかけるようになり、髪がごましおになって、目じりにシワができてはいるが、それ以外は、昔日の優雅さをほとんど失っていなかった。

 私は弟の朴と共同で翻訳した『曾野綾子小説選』と『わだつみ』(井上靖著)を先生に差し上げた。彼女も自分の二冊の著作にそれぞれ題辞を書いて弟へくださった。その一冊は『子供の危機――自然に帰れ!といわれるが』という本で、その題辞は「五十年前のあなたのお姿が目の前に浮かんで――」というものだった。もう一冊は『幼児をのばす 保育の視点 ここがポイント』で、その題辞には「あの頃を偲び、命ある喜びをかみしめて」と書かれていた。

 それから彼女は、私を案内して幼稚園をぐるりと一周した。教室の床はフローリングで、チリ一つなく磨きあげられていた。この幼稚園のすごいところは、広い庭があることだ。滑り台やシーソー、ブランコなどの遊具のほかに、裏庭には小山があって、うっそうと茂った林の中から小鳥のさえずりが聞こえてくる。地面は一面の草花で覆われ、土の匂いが漂ってくる。

 これらはすべて、子供たちが大自然の懐に抱かれて自由に活動できるよう作られたものだ。籠から放たれた小鳥のように、子供たちは思うぞんぶんかけ回って遊んでいる。

 「土一升、金一升」と言われるほど地価の高い東京都内に、こんな大自然が保存され、そこに私立の幼稚園がある。こんなことは、なかなか想像できないことだ。

庭の真ん中に鶏舎があって、何十羽もの鶏が餌をついばんでいる。その中に鳩も数羽混じっている。「もとはウサギも飼っていたのよ」と海さんは言った。子供はみな生き物が好きだ。鶏を飼うことを通じて、雛がどのようにかえるかを理解する。ヒヨコが見る見るうちに大きくなるも、子供の興味をそそる。

 国公立の幼稚園は月謝が四千円なのに、この私立の幼稚園は月謝が2万円かかる。それでも入園希望者がひきも切らず、定員が300人なので、毎年入園できない子供がでてしまう。

 自分のマンションに帰ってから、海先生がくださった二冊の本をひもといてみて、彼女のことを更に深く理解できた。

海先生は1909年、東京都港区白金に生まれた。(ここに白金台幼稚園がある)。1928年に私立昭和幼児師範学校を卒業。私たちが先生をお訪ねした1986年には、彼女は幼稚園の園長だけでなく、青山学院大学と青山学院女子短大の講師を兼任していた。『幼児の生活と教育』『幼児教育理論』『今後の保育』などの本を著している。一介の幼稚園の園長が、大学で講義をし、こんなに多くの本を書く。そんな人を私は見たことがない。

 白金台幼稚園は1947年に創立された。1975年に、白金台幼稚園のすぐ隣にある国立自然教育園のわきに高層ビルを建設する計画がもちあがった。それができると地下水脈が断たれ、幼稚園の木々は枯れてしまうにちがいない。幼稚園の保護者たちもいっしょになって、関係官庁に高層ビル建設計画の中止を請願した。するとこの建設計画は意外にも取り消しになってしまったのである。これは政府当局が幼児教育をいかに重視をしているかを物語っている。

 経済の繁栄につれて、日本の社会にさまざまな弊害が現れてきた。高層マンションで成長した子供たちは、太陽にも当たらず、土に触ることもできない。栄養をとりすぎ、運動不足で、肥満児になったり、精神的に弱く、年端もいかないのに自殺してしまったり、甘やかされて人とのつき合いが苦手で、性格がひねくれてしまったり……。海先生は十年一日の如く自分の仕事を続け、豊富な経験に基づいて、一代、また一代と、次の世代の日本人を育成するという彼女の理想を実現してきた。

 5月10日、私は海先生と麻布小学校成立百十周年を祝賀会場でまたお会いした。その日はまた麻布幼稚園の成立50周年でもあった。そのとき私は初めて、弟の朴がこの幼稚園の第一期の卒業生であることを知った。

 たくさんの若い保母さんに囲まれて海先生は、写真を見ながら、この写真は何年に撮ったものだとか、写真に写っているのは誰だとか、説明していた。海先生は麻布幼稚園の「生き字引」と言ってもよいだろう。

 陳列ケースには、毎年刊行される記念アルバムが並んでいた。その中の1935年度のアルバムから、私は弟の朴の写真を見つけた。私の家にずっと保存してあったアルバムは、1966年8月、「文化大革命」で焼失してしまったのだ。

 祝賀会が終わってから、当時、朴を教えた保母の小山田児子さんが私と海先生を招待し、フランスケーキを食べに行った。海先生は高速道路の前にあるビル群を指さしながら「惜しいことに、文さんが子供ころに住んでいたこの一帯は、みんな取り壊されてしまったの」と言った。

 ケーキを食べ、コーヒーを飲みながら、海先生は語ってくれた。ご主人は、日本が中国を侵略した戦争の時、肺病を患ったため兵役を免除された。しかし日本が降伏する前に亡くなってしまったという。子供はなかった。

 海先生より少し年下の小山田さんはずっと独身を通して来た。あのころ、若い男たちは前線に送られ、戦死してしまったから、多くの若い女性は独身を通すしかなかった。間もなく戦場に送られる人と急いで婚礼を挙げた人は、すぐにほとんどが未亡人になってしまったのだという。

 彼女は文字通りに幼稚園を我が家としていた。彼女のあの質素な寝室の下の階は、子供たちの工作と音楽の教室だった。彼女は一日中、子供たちのために勤め、子供たちの笑い声に包まれることを無上の喜びとしていた。

 別れ際に海先生は、数枚の写真を私にくださった。それは半世紀前、私たちの家族全体が東京で撮った集合写真だった。「文化大革命」中、私は家にあった写真を全部焼いてしまった。悔やんでも悔やみきれない。海先生はそれを知って、私たちがかつて彼女にあげた写真を六枚複写して引き伸ばし、私たち兄弟姉妹に一枚ずつくださったのだ。

 1986年6月、私は帰国した。その後、朴の二人の娘、静と黎が前後にして日本に留学した。静は青年技師の池田隆さんと結婚し、東京に住んでいる。お産の時には、朴夫婦が東京へ行ったが、それを機会に海先生は、朴の幼稚園時代の同窓生を捜し出して集め、当時の懐かしい思い出話に花を咲かせたり、記念写真を撮ったりした。

 毎年11月20日の海先生の誕生日には、私たちは必ず連名でお祝いのカードを贈る。
 1996年、海先生は87歳で退職し、港区にある老人ホームに住んでいる。海先生は生涯を幼児教育事業に捧げ、優れた成績をおさめたため、勲章を授与された。(2001年12月号より)