自分の居場所を見つけた
 ユニバーシアード金メダリスト・王叡さん

                       王 浩

 

ユニバーシアードで優勝し歓声に応える王さん
 

 2001年9月1日、北京で開催された第21回ユニバーシアード競技大会が閉幕した。10日間の競技期間中、清華大学の室内水泳競技場で行われた飛び込み競技は、特に注目を集めた。その主役は、同大学外国語学部英語専攻の1年生で、飛び込みチームの王叡さん。女子10メートル高飛び込み最終試技の最終競技者だった。

 最終試技直前、第3位につけていた彼女は、結果への不安をほとんど感じていなかった。選んだスタイルは、「5237D」(後宙返り一回半三回半捻り)という難易度が高いもの。王さんは飛び込み台の中央に立ち、腕をまっすぐに伸ばし、何回か準備動作をしたあと、ゆっくりと飛び込み台前方に進んだ。観衆の目が彼女に注がれ、会場は静まり返った。腕振り、踏み切り、回転、着水……大スクリーンに彼女の得点が映し出されたとき、割れんばかりの大歓声が沸き上がった。ある記者は席から飛び上がり、「王叡が勝った! 金メダルだ!」と体全体で喜びを表現し、観衆も総立ちになって祝福の拍手を送った。彼女は、完璧に近い最後の飛び込みでトップに踊り出て、金メダルを手にした。

    北京市飛び込みチームからのスタート

 今年21歳の王さんは、清華大学の新入生だが、スポーツ選手としてはすでに数多くの実績を上げている。彼女は北京の普通の家庭に一人っ子として生まれ、小さなころから聞き分けのいい子供だった。

踏み切り(写真・劉世昭)

 王さんは、生まれつき動くのが好きだった。しかし近所の子供と比べて痩せて弱々しかったため、両親はいつも病気にならないかと心配していた。そこで彼女が六歳のとき、健康で元気な子に育ってほしいと願い、北京市西城区のアマチュア体育学校に通わせることにしたという。この時から、小学校に通いながら体操の練習をする生活が始まった。

 王さんが八歳の年に、北京市飛び込みチームのコーチ陣が、アマチュア体育学校に優秀な選手を引き抜きに来た。王さんの高い運動能力に目をつけ、また、体型が飛び込みに適していると感じた体操コーチは、彼女を推薦した。視察に来た任少芬コーチも、王さんの能力にほれ込み、両親の同意を経て、王さんは北京市飛び込みチームの一員となった。これがスポーツ選手としてスタートだった。

 スポーツ選手の生活は、単調で味気ない。プールと宿舎の往復を繰り返す朝から晩までトレーニングの毎日で、プライベートタイムはほとんどない。王さんは、「トレーニングが終わった後は、音楽を聞いたり雑誌を読んだりする時間しかなかった。一般教養の授業はあったけど、勉強はいつでも中途半端だった」と振り返る。いつでも競技に臨める体調を保つため、ふだんは質の高いメニューを1日7〜8時間もこなしていた。「最初のころはたまらなかった。生活はつまらなかったし、トレーニングも辛かった。隠れて泣いたこともあった」という。

 そんなトレーニングの成果は成績となって現れた。1992年、彼女ははじめて飛び込みのナショナルチームに召集された。その後も勉強、トレーニング、試合の忙しい生活の中で、技術は急速にアップしていった。93年と97年には全国大会で優勝、そのほかにも、国際大会や国家レベルの大会で、何度も好成績を収めた。

 王さんの技術が最高潮に達していた98年、椎間板ヘルニアが、彼女を飛び込み台から引きずり降ろした。一定の治療期間を経て、病状は好転したが、長くトレーニングができなかったことで、技術は明らかに落ち、ナショナルチームのトレーニングについていけなくなってしまっていた。彼女は絶望感に襲われた。
 

 「当時、もう飛び込みはできないかもしれない、仲間のみんなと試合に出られないと思ったら、辛くて辛くて……」

 彼女は、気落ちして困惑した一時期を過ごしたが、それでも、「大好きな飛び込みを捨てる」などとは、一度も考えなかった。王さんの両親は、20歳になっていた彼女の将来を心配し、学校に通ってほしいと思うようになっていた。王さん自身も、もっと教養を深めたいとの思いを強く持っていて、清華大学飛び込みチームの于芬コーチと連絡を取った。

      清華大学の新入生として

 于さんは、中国スポーツ界で高い名声のあるコーチだ。以前は飛び込みナショナルチームのコーチとして、伏明霞さんや李青さんのような、オリンピックや世界選手権でメダルを獲得した選手を指導していた。彼女は、長いコーチ生活の中で、ずっとスポーツと科学を結びつけた研究に力を注いできた。そして、好成績を上げたとたんに引退して、あまりにも早く自分のスポーツ生命を断ってしまう選手がいる状況、幼少時からの徹底的なスポーツトレーニングのために、一般教養を身につける時間が足りないスポーツ選手がいる状況を憂えていた。これらの元スポーツ選手は、総合的な素養が未発達なため、引退後の新しい職場になじめず、苦労することになる。また、総合的な素養の未発達は、環境の変化に対応できず、落ち着いて試合に臨めないなどの問題も引き起こす。そこで于コーチは、スポーツ選手の成長過程では、教養教育とスポーツトレーニングをバランス良く行う必要性を強調している。

于コーチ(左)と
(写真・劉世昭)

 1996年、清華大学は于コーチの提案を受け入れて大規模投資を行い、新しい室内水泳競技場を建設した。また、心理学、運動学、力量学などの科学研究チームを組織した。これらの準備を経て、98年1月、「身体と頭脳のバランス、卓越の追求」を合言葉に、清華大学飛び込みチームが誕生した。このチームは、一般教養と飛び込み専門知識の総合教育を行っている。全国各地から選抜された9歳から12歳までのちびっ子と、王さんを含む数名の20歳前後のメンバーからなる。

 1999年、王さんは、于コーチ率いる清華大学飛び込みチームの一員となり、同時に清華大学英語専攻の新入生となった。この時から、彼女の前には、まったく新しいステージが広がった。

 清華大学での王さんの生活は規則的だ。午前中は英語を勉強し、午後は飛び込みのトレーニングがある。

 「以前はトレーニングがなければ試合があった。だから、楽しさも辛さも試合の中にあり、本当に飛び込みだけの生活だった。でも清華のキャンパスで、わたしの考えは変わった。ここは知識と情報の大海原で、知恵とインスピレーションが充満している世界。大学は、学業に対してとても厳しいが、学習と生活の雰囲気は生き生きとしていて、多彩。何か困ったことがあっても、先生や同級生がいつでも助けの手を差し伸べてくれるから、自分を豊かにすることができる。わたしは、自分の考え方がオープンになった気がする。飛び込みも、いまでは自分のすべてではなくなったと思う」

 王さんは、飛び込みだけの生活で二の次になっていた教養を身につけるため、週末や夜に、時には徹夜までして勉強した。頭が切れて頑張り屋の彼女は、徐々に他の同級生に追いつき、学校生活にも慣れ始めている。

 専門知識の充実、心や視野の広がりは、彼女の「飛び込み」と「試合」に対する理解を大きく前進させた。また、于コーチの細かな指導で、素養も豊かになった。王さんは、試合結果に以前ほどこだわらなくなり、コーチから受けた技術指導の意味も理解しやすくなったという。精神状態が安定していてリラックスできているために、練習の成果が上がっているといえそうだ。

清華大学で授業を受ける
王さん(写真・楊振生)

 清華大学での生活は、王さんを変えた。于コーチが、「王叡は、ここに来てから笑顔が絶えなくなった。リラックスできているのは、すぐにわかる」と語るように、悲しみ低迷していた状況から抜け出した。

 王さんのルームメートが、飛び込みチームのちびっ子たちだというのは面白い。王さんは、「叡ねえさん」と呼ばれ子供たちから慕われている。于コーチは、「王叡は、誰からも好かれるタイプで、ちびっ子も彼女と一緒にいるのが楽しくてしかたがないみたい。勉強でもトレーニングでも、子供たちの模範になってくれるし、コーチがチームをまとめる際にもいろいろ協力してくれる」と話す。

 良好な生活環境と適切なトレーニングにより、今年の彼女は、全国大会で第三位、ユニバーシアードでは優勝と好成績を連発した。

 勉強、競技に関わらず、彼女の成長には目を見張るものがあり、コーチ、英語の指導教授らは、今後のさらなる飛躍に大きな期待を寄せている。王さん自身も、「いまの調子を保てれば、2004年のアテネ五輪に出場できるはず」との夢を語ってくれた。(2001年12月号より)