「電脳病毒」の必殺人
    王江民氏

                 王 浩

   中国のシリコンバレーと呼ばれる北京の中関村で、コンピューター・ウイルスを殺す「KVソフト」を知らない人はいない。このソフトは二年前、中関村の「村人たち」から「ハードカレンシー」(交換可能な通貨)と称えられた。KV製品を持っておばあさんがタバコを売っている露店にいけば、高級タバコと交換できるといわれた。このKVシリーズのソフト製作者こそ、伝奇的な人物、江民新科技術有限公司の総裁――王江民氏である。  

         幼いときの思い出

王江民さん(撮影・馮進)

 1951年、山東省煙台市に生まれた王さんは、普通の人と比べれば、児童時代はけっして幸せとは言えなかった。なぜなら、記憶が始まったときすでに、王さんの足は動かなかったからだ。それは3歳ごろに患った小児麻痺の後遺症である。

 「当時私は、自分で階段を下りることができないことを知っていました。もし階下に下りるとすれば、階段の上から下までごろごろ転げ落ちていくしかなかったでしょう」と王さんは言う。

 二階から下りられない王さんは毎日、窓から街を行く賑やかな人々の流れを眺めていた。寂しいときには一枚の紙を半分に切って重ねて折りたたみ、紙の先端を「こより」によって「放転転」という紙の玩具をつくった。そして身体を窓から乗り出して、下に落とすのだ。すると「放転転」は、ぐるぐる回りながら落ちて行くのであった。

 「この哀れな足には感覚はあるが、痛みはない」と王さんがいう。足が不自由なのに、どうしても自転車に乗りたくて懸命に練習した。最初はよく転んで、鼻に黒くあざができ、顔が腫れ上がって、目から火花が出た。だが、とうとう自転車の乗り方をマスターしてしまった。

 山にも登りたかった。家の近くの山々は全部登ってしまった。小学4年生のころは、ラジオに興味を持った。本を探してきて読み、家の中で「研究」を重ねた結果、とうとう八つの半導体を使ったツーウェーブのラジオを作ってしまった。続いて無線の送受信機、レコードプレーヤーも、この少年の手でつくられ、相次いで「発表」された。

 中学卒業後、王さんはある町工場で働くようになった。当時の王さんは電動機械に強い興味を持っていた。時間外に暇さえあれば、二十以上の講座に続けて参加し、3年後には一躍、工場の技術面での中軸となった。

 数年後、王さんは夜間大学に入って勉強した。この後、彼は科学技術の研究で大きな成果をあげ、前後して二つの称号を授与された。「新しい長征の突撃者の手本」「独学で成功した人の手本」という称号である。その時、王さんはすでに「煙台軸受け計器総工場」の電動機械の高級技師となった。

         ウイルスと戦う

 王江民さんが最初にコンピューターに接したのは、38歳になってからだった。だが彼はそのとき「自分が年をとりすぎたとか、できないのではないかとか、全く思わなかった。ただ、英語の基礎ができていないと思っただけだった」と回顧している。

広州で開かれたエキ
ジビションで、自ら
ユーザーに実演して
みせる王さん(写真
提供・王江民)

 彼のコンピューター学習は、自分の工場の電動機械をオートメ化することから始まった。コンピューターは、電動機械産業の将来の発展に不可欠だと彼は確信した。それはさすがに慧眼だったといえよう。彼はいろいろ工夫して、コンピューターの勉強を始めた。だが、本を読んでいるだけでは抽象的だと感じ、すぐ、千元以上も払って「中華学習機」という練習用のコンピューターを買って、直接操作してみた。

 さらに1年後には、もっとも原始的なパソコンを一台買った。王さんはこのパソコンを使って、小学1年生の我が子のために学校の勉強をみてやった。つまり親が勉強をみてやる代わりに、学習内容を定めた「教学大綱」に沿って、国語と数学の授業のソフトをつくったのである。

 思いもかけず、このソフトがコンピューターの新聞『電脳報』に発表され、「教育ソフトの第一位」に評価された。そして全国的に販売されたのだった。これが彼のソフト開発の興味をかきたて、数件のソフトを次々につくりあげた。いずれも評判がよかった。ところが間もなく、王さんはコンピューター・ウイルスの領域に方向転換することになる。

 王さんはソフトを作り始めたころから、コンピューター・ウイルスとは「切っても切れない縁」があった。彼が最初に製作した電動機械制御のソフトは、ユーザーの機械に取り付けられたが、ウイルスに感染してしまい、正常に動かなくなった。ユーザーは「王江民の開発したソフトはダメだ」と言った。「このため私は、ウイルス問題を解決しなければならなくなったのです」と王さんはいう。

 機械を正常に動かす必要からもウイルスを退治しなければならない。負けず嫌いの王さんは、ウイルスと初めて接触したとき「こいつを絶対に殺してやろう」という気持ちを燃え上がらせたのだった。

 「ウイルスを殺すまでは決してやめないぞ」

 王さんは最初、「デバッグ」という方式で、一つ一つ手でウイルスを殺した。次いで一つのプログラムを作って一種類のウイルスを殺すようになった。さらにそれぞれ独立したプログラムを使ってウイルスを殺すのは面倒なので、六つの異なるウイルスを殺すプログラムを一つにまとめてしまった。そしてそれを「KV6」(KVはキル ウイルスの略)と名づけた。その後KVシリーズは「KV8」「KV20」「KV100」に発展していった。

 KVシリーズの性能がどんどん高まるうちに、王さんはついにウイルスを退治する専門家となってしまった。「同業者に対しては見下げた態度をとったことはありません。しかし、ウイルスに対しては、いつも傲慢に対応します。外国では、ソフトがウイルスをよく発見するのですが、それを殺すことができないため、『ファイルを消除しなさい』とアドバイスするだけで済ましています。だが私は、ひとたびウイルスに出会えば、これを殺さずにはおきません」と王さんはいう。

利益を社会に還元する。王さんは身体障害者法10周年の座談会で、百万元を寄付した(写真提供・王江民)
日本でも商談が進む(写真提供・王江民)

 ある日、王さんは、煙台から北京のさる外資系企業にやって来た。ちょうどその企業は、3万元を払ってアメリカの専門家に来てもらい、ウイルスの摘発と除去をしてもらっていた。そこに遭遇した王さんは、応接間で一時間以上も待っていたが、アメリカの専門家はついにウイルスを殺すことができなかった。

 それでは今度は王さんにやってもらおうということになった。張りつめて緊張した雰囲気の中で、王さんはコンピューターを操作した。そのひとつひとつの手順は、そばにいる記録員によってすべて記録された。間もなく王さんは、感染したウイルスは「トーチウイルス」と判定した。このウイルスは発病すると、ハードディスクの中身を破壊するだけで、データは破壊されないことが分かった。

 10分後、ウイルスに感染したコンピューターを再び起動させ、20分後、王さんの指導でこの企業の二十数台のコンピューターからウイルスはすべて駆除された。

 これまでに遭遇した、もっとも難しく、もっとも強力なウイルスは「JOKE」というウイルスだった、と王さんはいう。「このウイルスは無数に形を変える。ありとあらゆるプロテクトをすべてかけてみた。3、4日間、頭を痛めたが、やっとそれを殺すことができた。暗号解読の手法を用いたのだ」

 王さんは自ら手を下してウイルスを殺すのが好きだ。こうすればアンチ・ウイルスの領域での最新動向を自ら把握できる、と彼はいうのだ。こうして彼は、いろいろなやり方でそれぞれ異なるウイルスに対処する方法をあみだした。

         世界に広がるKV

 しっかりした理論的基礎と先進技術をもった王さんは、自分のアンチ・ウイルスのソフトを商品化しようと決意した。しかし、自分の商品も他のものと同様に、ウイルスが発生してからこれに対応するまでに時間がかかりすぎるという問題があることに、彼はすぐ気づいた。「KV商品が煙台で人気があっても、それは私が煙台にいるからだ。ここでは確かに他のアンチ・ウイルスのソフトに比べ、私のソフトは有効だ。しかし、私がもし別の場所にいれば、KVは他のソフトと同様に、ウイルスに遅れをとってしまう」。こう考えた王さんは、新聞紙上にウイルスのコードナンバーを公表し、ユーザーに自分でバージョンアップさせることを考えついた。

 彼は、こうした考え方と、汎用性のあるKV100ソフトとともに『軟件(ソフト)報』という新聞に郵送した。これを受けた『軟件報』は、ただちにこれが良い方法だと認め、1994年7月15日、初めて「アンチ・ウイルスの公告」を紙上で発表した。これはKV100とウイルスの『軟件報』上での戦闘開始であった。

 速やかにウイルスを殺すという王さんの理想は、その第一歩が実現した。インターネットやレーザーディスクがまだなかったので、新聞のアンチ・ウイルスの公告は決定的な役割を果たした。少なからぬ組織や機関の指導者は、コンピューター管理員に対し、新聞を毎回切り抜きさせ、新たなウイルスの番号をリストに加えさせた。

 しかし自ら開発した良いソフトをどうやって売り出すのか、自分の力だけに頼っていてはダメだ。王さんは煙台から北京に来て、中関村の中を駆け回り、譲渡する相手を探した。複数企業に特許権を売ることから、一企業と独占契約を結んだり、販売地域ごとに契約を結んだり、王さんはいろいろな方式を試してみた。

 KVソフトをKV3000にバージョンアップしようとして、王さんはKVの版権を120万元で売りに出した。しかし、当時の中関村は、ソフト業界が非常に低迷していたので、どんなソフトも、百万元では売れなかった。しかし、王さんは、自分の開発したソフトがどれほどの価値があるか、はっきり分かっていた。

 この時、「一生でもっとも重要な選択」をしたと彼はいう。仕事を休職し、アンチ・ウイルスのソフトに熱をあげている数人の若者を連れて、中関村にやってきて、「江民新科技術有限公司」を創立したのである。彼を知る人たちはみな、ソフト業界がこんなに不景気なときに公司を始めるのは危険が大きすぎると考えた。だが、彼は独特の見方をしていた。「この時期に世に出る方がもっと見込みがあると思う。技術的には、ウイルスを殺すことに私は熟知しており、かつまた、KVはすでに知名度が高い。多年にわたるハイテクの経験から、私には公司をやっていく能力があると思った」という。

 KV100とKV200で稼いだ金は全部で五十万元に満たなかったが、公司の基礎だけはできた。しかし、公司をつくってから一週間で、意外にも150万元を稼いでしまった。それは彼自身、予想もしなかったことだった。「こんなにブームになるなんて。私はせいぜい百万ほど稼げばいいと思っていたのに」と彼はいうのだ。

 この後、KVソフトは、速度が早く、性能が良いことから、アンチ・ウイルスのソフトの市場でずっと勝利し続け、飛躍的に発展した。わずか数年のうちに、江民公司の社員は、創業当時の数人から百人余りに発展した。全国各地に三十余カ所の事務所と百余カ所の営業のネットワークができた。いまやKVの商品は、チベットを除く中国全土で売られている。

 王さんはいつもこう考えている。公司が早く発展するのは、常に技術が先行するからだと。「ウイルス退治では、やたらにソフトの性能を誇大に言うのではなく、それが本当にユーザーの問題を解決できるかどうかが大切なのだ」という。

 王さんによると、KVのソフトは逐次バージョンアップして、技術的にはすでに世界の最高水準に達している。またKVは、ウイルスを捜し出し、これを殺し、予防するというソフトの基礎の上に、ハードディスクを維持、補修する機能を加え、その修復率は九八%以上に達している。

 江民公司は中国全国だけでなく、国際的にも一部地域と協力関係を作り上げた。もし新たなウイルスが出現したことがわかると、直ちにウイルスの見本やコードを江民公司にFAXで送ってくることになっている。江民公司は速やかにこれに反応するが、王さんは「我々はもともと、何時間のうちにウイルスを退治するとは約束はしてはいない。だが、ウイルスの見本を受け取ってからもっとも長くても3、4日で問題を解決する」と言っている。

 このほか、公司はさらにウイルス退治のウェブサイトを創建した。ここでは、技術的なコンサルティングや、製品の新バージョン、新ウイルスなどが紹介される。ユーザーは直接、ネット上でバージョンアップしたり、商品を購入したりできる。今やこれは中国のウイルス退治のユーザーウェブサイトとなっている。

 技術が高い水準に達すると、製品は国際化へと進む基礎が定まる。昨年開催されたアジアのコンピューター安全会議で、王さんは偶然一人の日本人の友人に出会った。協議の結果、この友人は一部のKVソフトを日本に持ち帰り、販売することになった。

 昨年4月26日、CIHウイルスが日本の一部地区で発生した。しかし、KV製品を使っていた一部のユーザーは、短時間のうちにウイルスを殺し、ハードディスクを修復することができた。

最新バージョンの
KV3000のソフト
(撮影・馮進)

 ユーザーたちはこれを称賛し、その後、日本におけるKVの売り上げは次第に上昇した。ある日本の商人は、一度に八万セットも発注した。またKVソフトは、ドイツやハンガリー、フランスなどでも販売が始まった。「中国がWT0(世界貿易機関)に加入すれば、それにともなって製品が国際化へ向かうのは必然的なすう勢だ」と王さんはいう。このためKVは、海外ユーザーのために、多言語のバージョンを開発した。「どこの国でも需要さえあれば、我々はすぐにその国の言語のバージョンを開発します」という。

 この数年のうちに、KVソフトは、早い対応、先進技術、有効な修復機能で、中国のアンチ・ウイルスソフト市場の大部分を占領してしまった。これによって江民公司は、北京の中関村のソフト業界で、納税額第二位の地位を獲得した。王さんは「今日の江民公司はまさに、中国のアンチ・ウイルスの流れを指導している。そしてこれからも真っすぐに進んで行くだろう」と言っている。(2002年2月号より)