三峡ダムに沈む 神農渓

                          写真 文・狄 華


 三峡ダムの建設により、長江沿いには多くの新しい風光明媚なスポットが生まれる。しかし、長年親しまれてきた景勝地の中には、ダム湖の水位上昇とともに消失してしまうところもある。「中国一の川下りの名所」と称えられてきた神農渓も、そんな景勝地のひとつだ。

男の川

力強さがみなぎる巴東の船乗り

 神農渓は、湖北省神農架の雪山に源を発し、人が足を踏み入れたことのない原生林やカルスト地帯、17の山の間を流れ、湖北省宜昌市の巴東県で長江に流れ込む。全長60キロ。

 三峡の険しさは有名だが、神農渓ほどの場所は他にはない。神農渓の水量は多くはないが、浅瀬が多く、川幅が狭いため流れが速い。相対落差は2900メートルあり、危険地帯は四十数カ所にも及ぶため、航行するには大きな危険がともなう。そのためここでは、かじのとりやすい機動性に富んだ小型船「豌豆角」(形がサヤエンドウに似ているため、こう呼ばれる)が、唯一の水上運輸手段であり、伝統的な川下り船となっている。

神農渓の渡し場
作業の合間に昼食をほおばる

 神農渓の川下りの起源は、はるか昔までさかのぼる。昔の人たちは、「豌豆角」に薬材を積み、長江流域の各地と交易をしていた。川の中ほどは流れが急なため、川を上るには、岩壁や川辺の砂地に沿って、人力で船を引っ張るしかない。船頭たちは、長時間水の中で作業をしなければならないが、目が粗いトゥチャ族の手織り木綿の服は水の中で鉄のように硬くなり、皮膚、特に内またや太もも、ひざ頭などが一旦擦り切れるとただれて痛く、どうしようもなかった。そこで、彼らは徐々にはだかで船曳をするようになった。

船曳の人夫たちにスケッチを見せる湖北省美術学院の李三漢教授

 のちに、船に乗って川を下り、船を引いて川を上る風景は、神農渓ならではの観光資源となった。1980年代には、国から国際観光スポットに指定され、内外の観光客が絶えなかった。そうなると、今度は人夫たちのはだかでの労働が問題になった。地方の観光部門は、人夫たちに服を着るように何度も勧告したが、一向に効果はなかった。人夫たちはのちに折れて、観光客がいる際には勧告に従ったが、観光客が帰ると、すぐに脱ぎ捨てるという状態だった。

 危険で困難な環境と独特の作業方式は、男性を神農渓の唯一の主宰者とならしめた。男たちは、長年激流の中で闘い、男としての美を全身から表現し、どれだけ多くの観光客を魅了したかは誰もわからない。そして、神農渓は、名実ともに男の川、勇士の川となった。

吉祥を願い岩壁に突入

神農渓沿いの岩にはサルが群がる

 「豌豆角での川下り」を体験するため、私は湖北省美術学院の李三漢教授とともに神農渓まで足を運んだ。私たちは厳格に能力の高そうな人夫を選び、昔ながらの「はだかでの川下り」をお願いした。

 一般的には、「豌豆角」の船乗りは6人で、ほとんどがトゥチャ族だ。6人のうち、船尾で櫓をこぐ人と船首で棹を握る人は特に重要で、地元の人からそれぞれ「船老大」(上の兄貴)、「船老二」(二番目の兄貴)と呼ばれている。ほかの四人は船曳の人夫で、そのリーダーもすぐれた瞬発力だけでなく、豊富な経験と技術がなければ務まらない。私たちが選んだのは、最年長で50歳過ぎ、最年少で十九歳の船乗りだった。

水中の美しいくり石。観光客の目を楽しませている。

 神農渓の川下りは、原始的で刺激的で、しかも自然をたっぷり味わえる。小船は、暗礁の多い急流を上下左右に大きく揺れながら、まるで手綱から逃れようとする馬や、弓から放たれた矢のように、下流に向かって突進した。目の前の大きな岩にぶつかりそうになり、もはやこれまで、と思った瞬間、「船老二」が大声で一喝し、岩壁を長い棹で軽く突き、船は間一髪のところで横をすり抜けた。私は冷や汗をかいていた。ふり返ってみると、なんと岩壁には「朝我来!」(こっちに向かって来い!)の三文字が書かれていた。

 面白半分に書かれたものだろうと思ったが、質問してみて、代々伝えられてきた危険地帯を通る秘訣だと知った。地元の人は、暗礁や岩石めがけて突き進めば大吉、もし避けて遠回りをしたら、禍がふりかかるという。そうは言っても、実際にその場に居合わせて恐れを感じないのはたやすいことではない。「船老大」は、普段はいたずらっ子のようにざっくばらんで活発な人だが、この時だけは厳粛で落ち着き、細心の注意を払っていた。

神農渓上流の美しい景色

 船が竜昌峡に着くと、今度は川をさかのぼった。4人の人夫は船から飛び下り、藤で作った輪と太縄を持って、1メートルにも満たない間隔で一列に並んで船を引っ張った。

 船首の「船老二」は、舳先に縄をつなぎ、船べりを足で支え、両手で棹を握りしめて、岩壁に突き立てた。身体を後ろへ180度仰向けにすることでバランスを取り、船と身体は一直線になった。船尾の「船老大」は、片手で櫓をこぎながら、もう片方の手で棹を握って左右の岩壁に気を配り、休むひまはなかった。

 人夫たちは、時には前傾姿勢で進み、また時には立ち上がる反動で縄を引っ張った。小船は緩やかに前進し、船底がくり石と擦れ合うガチャン、ガチャンという鈍い音がした。「ヘイヨー、ヘイヨー……」と、リズム感ある掛け声が山々にこだました。

 これこそが、有名な「巴東」(三峡地区の県名)の船歌で、その原始的で、もの寂しい歌声は、心に響いた。(2002年6月号より)