日中国交正常化30周年記念

寒山寺 「夜半の鐘声」を聴きながら

写真・鄭翔 悟根法師 劉世昭  文・ 劉世昭

 月落ち烏啼いて霜天に満つ
 江楓漁火愁眠に対す
 姑蘇城外の寒山寺
 夜半の鐘声客船に到る

 

 これは、唐代の詩人、張継が詠んだ「楓橋夜泊」である。この名作は日本でも代々、詠い継がれ、この詩によって、蘇州にあるこの小さい寺の寒山寺は、人に知られる江南の名刹になった。近年、ここに来る参拝客や観光客は年を追って増え、2000年にはこれまで最高の138万人に達した。統計によると、この数字は、中国の多くの仏教寺院の中で、浙江省杭州の霊隠寺、河南省洛陽の白馬寺、河南省登封の少林寺に次いで第4位を占めている。

毎日、朝と晩にお勤めをする僧侶たち

 20年前の大晦日の夜、寒山寺で新年の鐘の音を聞いたことがある。寒山寺創建1500年に当たる今年、再び寒山寺を訪れることができ、感無量であった。

 寒山寺の山門前に建つ黄色い照壁(目隠し用の塀)に、「寒山寺」という三文字がくっきりと、三枚の石に刻まれてはめ込まれている。この三文字は、清代末期の挙人(科挙試験の郷試に合格した人)である陶濬宣の手になるものだ。陶濬宣は詩歌や書画に秀で、当時の銀貨や銅貨に刻まれた「光緒通寶」という文字も彼が書いたものだとされている。

1996年に落成した普明宝塔

 この三枚の石は、一時、行方が分からなくなった。だが、1954年に寺の建物を修理した際に、土の中から掘り出され、現在のところにはめ込まれて、寒山寺のシンボルの一つとなった。

 山門をくぐると、大雄宝殿の前の庭に多くの観光客や参拝客が集まっていた。大雄宝殿の中に入ると、中央の須弥壇に、金色に輝く釈迦牟尼仏の座像がまつられている。20年前に来た時は、「文化大革命」で壊されたこの仏像はまだ修復されなかったと記憶している。いまの仏像は、翌年の1983年に新しく造られたものである。

 殿内の両側には、明の成化年間(1465〜1488年)に鋳造された、鉄製で表面に金メッキを施した十八羅漢がまつられている。この生きているかのような等身大の羅漢像は、1981年に、仏教の聖地、五台山から移されてきたものだ。釈迦牟尼の背後には、ほかの寺院では南海観音がまつられているが、ここでは寒山と拾得の石刻の拓本画像がまつられている。

寒山寺の監院である秋爽法師
「碑廊」にある、清代末の朴学(清代の考証学)の大学者である兪エツ(1821〜1907年)が書いた『張継詩碑』(正面)は、寒山寺の数多くの碑の中で、最も人に知られている

 寒山寺という寺の名は、唐代の高僧である寒山と拾得がここに来たことから名づけられたと伝えられる。寒山と拾得は伝奇的な人物である。「寒山子」と呼ばれた寒山は、外見は乞食同然の姿だが、口をついて出る言葉にはみな哲理があり、常に拾得といっしょに詩を詠んだり、偈を吟じたりしていた。彼の詩集も後世に伝わっていて、唐代の傑出した詩を詠む隠遁僧である。

 民間では、寒山、拾得はそれぞれ普賢菩薩、文殊菩薩の化身と見なされている。清の雍正11年(1733年)、清の世宗・雍正帝は、寒山と拾得を「和合二仙」として勅命をもって封じた。

 大雄宝殿の後殿には、朱塗りの鐘掛けに青銅製の乳頭の飾りがついた鐘がつるされている。この鐘こそ、日本国民の友情が凝結したものである。

 もともと寒山寺は、その鐘の音によって天下にその名を知られていたが、唐代に張継が詩の中で詠ったあの鐘は、度重なる戦火でずっと以前に無くなってしまった。そして明代の嘉靖年間(1522〜1566年)に鋳られた大鐘も、日本に流失したと伝えられる。いまだに見つかっていない。そこで、熱心な日本の友人の山田寒山さんが寄付金を募り、1905年、この青銅製の乳頭鐘を鋳造し、寒山寺に寄贈したのである。

 大雄宝殿の両側にある月亮門をくぐると、庭の南東に鐘楼が見える。毎年、大晦日の夜、百八つの鐘の音が、ここから聞こえてくるのだ。

大雄宝殿の月亮門上にある「狂った和尚」の像
毎日、寒山寺に参拝にくる信者は絶えない

 寒山寺の監院は秋爽法師である。住職の性空法師はもう80過ぎているので、寺院の日常的な事務はいま、36歳の秋爽法師がみな取り仕切っている。1984年に18歳で出家した秋爽法師は、1987年、蘇州の中国仏学院霊岩山分院を卒業した。現在、寒山寺には、僧侶が35人いる。そのうち16人は、仏学院を卒業しているという。

 寺の後ろにある普明塔院の主殿は法堂で、南に面している。ここは、寒山寺を訪れる名僧や高僧が仏法を論ずる場所である。僧侶たちの教学の水準や文化的知識を高めるため、寒山寺はここに図書館を建て、各地から数万冊の関連図書を買い整え、コンピューターも置いた。これによって寺院は、文化的雰囲気が濃厚になった。

 「寒山寺は日本とのつながりが深く、毎年、日本から多くの観光客が来て、観光したり、鐘の音を聴いたりします。さらに日本の友人との交流を深め、仏法を広めるために、私たちは毎週二回、先生を招いて、僧侶たちに日本語を教えてもらっています」と秋爽法師は言った。

 塔院の中に、高さ42・2メートルの五重の仏塔、普明宝塔がそびえ立っている。史書の記載によると、寒山寺はもともと妙利普明塔院と呼ばれていたが、北宋(960〜1127年)の時代に、ここには七重の仏塔が建てられていた。しかし元代の末期(14世紀中葉)、戦火にあって壊れてしまった。

 それ以来六百余年の間、寒山寺は何度も盛衰を繰り返したが、仏塔の再建はずっとできなかった。10年前、寒山寺の住職である性空法師が、社会各界や仏教の信者、友好団体の多大な協力を得て、普明宝塔の再建事業を始めた。4年後、唐代の楼閣の様式を模した五重の方塔が、新築された塔院の中に建てられたのである。1996年10月30日、寒山寺は宝塔の竣工式と仏像の開眼式を盛大に挙行した。それ以来、宝塔は寒山寺の新しいシンボルとなっている。

 普明宝塔の上に立って眼を西に向けると、遠くに赤い夕陽が緩やかに地平線に落ちてゆくのが望まれる。頭をたれて下を俯瞰すると、張継が「江楓」と詠った「江村橋」と「楓橋」の二つの橋が、北京と杭州を結ぶ「京杭大運河」をまたいで架かっているのが見え、楓橋の古い街並みも一望することができる。

 参拝客や観光客は三々五々寒山寺を去り、夜のお勤めを告げる板木の音が寺の中から聞こえてくる。僧侶たちは列をつくってゆっくりと大雄宝殿に進む。間もなく、朗々とした読経の声が、寒山寺の中に湧き起るのだった。 (2002年12月号より)