伝説と自然が彩る 神農架

                   文・李世清 写真・張世応 羅永斌

 

 湖北省の神農架は、有名な中国の自然保護区である。「神農架に行ってきた」というと、みな「野人を見たか」と口々に尋ねる。これも理解できないことではない。神農架は、中国人の祖先の神である神農氏が、ここに足場をかけて薬草を採ったことで知られているだけでなく、「野人の出没」の噂で有名だからだ。

 当然のことながら「野人」は見当たらなかった。しかし、神農架の森林地帯は、さまざまな珍しい動植物が生息し、神秘性と多様性を秘めていた。

 

動植物の「避難所」

 

 神農架は湖北省の西北部にあり、大巴山脈の端に位置する。総面積は3253平方キロ。温帯と亜熱帯とが接する地帯にあるため、森林が生い茂っている。

 中国の南方のものと北方のものとが合流する所でもあり、動植物が繁殖・繁茂する「パラダイス」となっている。また世界でも珍しい、希少で絶滅に瀕している動植物が集まってくる「避難所」になっている。

 ここにある植物は3700種類以上で、樹木だけも千種類以上ある。そのうち、ハンカチノキ(Davidia involucrata)やカツラ、ユリノキなどは、今から1000万年から8000万年前の地質年代の第三紀から生き残ってきた希少な種類で、「生ける化石」と言われている。

ハンカチノキ

 ここには、国の保護植物が二百種類以上ある。そのうち、ハンカチノキはもっとも代表的だ。第四紀の氷河が襲ってくる前に、ハンカチノキの仲間は一時、大繁殖したが、現在はその中の一属一種しか生き残っていない。

 ハンカチノキは落葉の喬木で、最も大きいものは高さ30メートル以上にまで達する。その葉はほぼ円形で、葉の裏には淡い黄色や白色の荒い毛がいっぱい生えている。花は白くて大きく、そよ風の中に揺らめく花びらは、翼を伸ばしてまさに飛ばんとするハトとよく似ているため、「ハトの木」とも呼ばれている。

 ハンカチノキは中国特産の木で、神農架のほか、湖南省の張家界、四川省の峨眉山、貴州省の梵浄山などの名山でも、その姿を見ることができる。

神農架に生息している野生生物の一つ、ヒョウネコ

 最初にこのハンカチノキを見つけたのは、デイビッドというフランス人の宣教師で、彼は植物標本を収集するのが好きだったという。1868年、彼は四川省で、世界中の動植物学家がそれまで知らなかったジャイアント・パンダを見つけたが、そのとき同時に、西洋人がそれまで見たことがなかった美しいハンカチノキを目撃したのだった。

 彼の発見は世界を驚かした。デイビッドは中国に夢中になり、1900年まで生き、福建省で死んだ。世界の植物学界は、デイビッドの発見を記念して、ハンカチノキのラテン語の学名を定める際、それに「デイビッド」の名を被せたのだった。

 後にハンカチノキは、欧州人の手で次々に西洋に移植され、公園や街頭や庭に植えられる有名な観賞用の樹木となった。その木が中国から来たため、欧州の人々はそれを「中国ハトの木」と呼んでいる。

 神農架は野生動物の「パラダイス」でもある。現在、ここには1050種以上の動物が生息・繁殖していることが確認されている。このうち特に貴重なものとして、キンシコウ(金絲猴)が挙げられる。

神農架のキンシコウ

 キンシコウは中国にしかいない貴重な希少動物で、地球上に現れてから少なくとも150万年、生存してきた。現在生き残っているのは三つの亜種にすぎない。それは、四川省の「川キンシコウ」と雲南省の「テンキンシコウ」と貴州省の「黔キンシコウ」である。

 神農架に住むキンシコウは「川キンシコウ」に属し、顔面の色は薄い青色で、鼻の穴が上を向いているため、「藍面猴」とか「仰鼻猴」とか呼ばれている。ふだんは森の中で、数十匹か百匹ほどの群れをつくって木の上で生息している。繁殖期になると、その群れはだいたい二倍以上に膨れあがり、数百匹にも達する。

 キンシコウの食性は雑食で、春や夏にはセイヨウモミノキやタカネゴヨウなどの木の若芽や若葉、新しい枝の柔らかい皮を食物とし、秋には各種の種子や液果も食べる。

 キンシコウは猜疑心が強く、視覚が鋭くて、敏捷な体ときわめて強い跳躍力を持っている。木の上で水平方向に一度に6、7メートルも跳躍することができる。ひとたび危険を感知すれば、木から木へと跳び移って、瞬く間に雲隠れしてしまう。

 自然の生態系がよく保全されている神農架は、人々の注目を集めている。1990年には、ユネスコの世界生物圏保護ネットワークに参加し、1992年には「中国神農架保護区生物の多様性を示すモデルケース」(GEF―B)として、国連開発計画(UNDP)が主催し、国際復興開発銀行(世界銀行)が出資した地球環境基金(GEF)のプロジェクト項目に選ばれた。

神農架に伝わる伝説

 神農架はまた漢方薬の薬材がよく採れる「天然の薬草園」である。出版されたばかりの『神農架の漢方薬資源目録』に収められている統計によると、ここで採れる薬用植物は二千種を上回る。その中の60種類以上が抗ガン作用を持ち、百種類以上が高い健康増進の効用を有しているということだ。

 伝説上の中華民族の偉大な始祖の一人、炎帝神農氏は、かつて足場を設けて長い間、ここで薬草の採ったことから、神農架という名が付いたと言われる。

 炎帝神農氏の出生地は、一説には現在の陝西省の宝鶏地区といわれ、また一説には湖北省の随州といわれる。神農氏は姜水という川のほとりで成長したので、姜という姓になった。火を使うことを発明し、最初に農業を始めたので、「炎帝」「神農」と言われるようになったという。

神農架の「神農の壇」(写真・羅永斌)

 この偉大な祖先を記念するため、地元の人々は神農架の西南に「神農の壇」を建設した。古代の伝説によると神農氏の頭にはウシの角がはえていたので、造られた塑像にも角が付けられた。また塑像は、大地を身体に見たてて、頭部だけが造られた。その頭部の高さは21メートル、幅は35メートルある。両眼をかすかに閉じ、雄大にそびえ立ち、厳粛で温和な表情をしている。

 「神農の壇」の両側には、八枚の精巧で美しい壁画が刻まれている。これは神農氏の八大功徳を表わしている。つまり史書に記されている彼の「八大発明」である。

 それは@人間による穀物の栽培A生産用具B火を用いて作った陶器C医薬D土地の選定、水源の探査、集落の建設E初めての市の開設と売買F五弦の琴G年の瀬の祭りと鬼やらいの舞――である。

「野人」の謎

 神農架と聞いて人々がもっとも心を躍らせるのは、「野人」についてのいろいろな風説である。「野人」とは、科学的には「直立して歩行することのできる大型の霊長類の未解明動物」と叫ぶべきものだ。

 神農架の「野人」については、早くも三千年前の古籍の中にすでに記載されている。清代に著された『房県誌』には「房山ハ高険ニシテ幽遠ナリ。石洞ハ房ノ如シ。毛人多ク、ソノ長ハ丈(約3メートル)ニ余ル。遍ク体ニ毛ヲ生ジ、時ニ出デテ、人、鶏、犬ヲ噛ム……」と記されている。

 房山は今日の神農架地区で、1925年から42年までの17年間に、房県では「野人」を生け捕りにしたり、打ち殺したりした事件がたびたび発生したという。生け捕りにされた後、縛られて街頭にさらされた「野人」もいたという。

中国科学院の科学調査隊が神農架の現場で石膏を流し込んでつくった「野人」の足跡模型

 神農架の中の「板壁岩」と呼ばれる場所に「野人」がよく出没する、と地元の人が教えてくれた。

 1980年2月27日午後三時ごろ、地元の野外観察隊の隊員である黎国華さんはここで「野人」を目撃したという。当時、激しく雪が降っていた。それ以前にも彼は3回、「野人」の大きな足跡を見つけたことがあったが、「野人」そのものを見たことはなかった。今回、彼は、「グサッ グサッ」という足で雪を踏む音を聞いた。その音を頼りに探していくと、数十メートル離れた山の斜面に、身長2・5メートル以上の、全身くり色の毛で覆われ、髪の毛が肩まで垂れた「野人」を発見した。「野人」は悠然と、食べものを探しているようだった。

 黎さんは注意深く身を隠しながら「野人」に接近した。近づいて見ると、その「野人」は足が長く、臀部が大きく、手が膝に達しないことがわかった。彼はもともと手製の銃で「野人」の足を撃って傷つけ、生け捕りにしようと思っていた。しかし雪がひどく降っていたため、火薬が湿ってしまい、銃は発砲できなかった。焦った彼は、木の枝を足に引っかけて折ってしまったため、「野人」は驚いてすぐに逃げ去ってしまったという。

 この場所はこれまで何回も「野人」の足跡や毛髪、糞便、竹で作られた「巣」が見つかったことがある。糞便の中には果物の皮のかすや昆虫のさなぎなどが見つかった。これは「野人」の食生活が雑食であることを物語っている。

 もっとも驚くべきは、「野人」の「巣」である。ここは竹林が密生しているため、「野人」の「巣」は二十数本の竹で編んで作られていた。試しに人がそこに横たわってみると、寝椅子のようで、心地よいだけではなく、視野も広々としていた。

 中国科学院はこれまで二回、神農架の「野人」に対する大規模な調査を行ったことがある。

 第1回は1976年の9月から10月までで、60日間にわたり約300平方キロの面積と1000キロ近くのルートを調査した。その結果、「湖北省の北西部の神農架森林区と房県一帯には、確かに一種の大型で直立歩行することのできる高等な霊長類の動物が存在している。それはすでに知られている世界の四種類の現存する類人猿にくらべ、より進歩している可能性が高い。しかし徹底的に解明にするには、さらに力を入れ、相当な規模の、長期的な、さらに踏み込んだ調査を引き続き行う必要がある」との結論を下した。

 第2回の調査は、1980年に行われた。28人の科学調査チームが非常に苦労を重ねたが、最終的に「野人」を探し当てることはできなかった。

 2回にわたる正規の科学的な調査で、いずれも神農架の「野人」を捕捉したり、目撃したりすることはできなかった。しかし、ほとんど毎年のように地元の人々、あるいは観光客が「野人」に遭遇した、というニュースが伝えられている。地元の関係資料の統計によると、1925年から今日までに、神農架地区で110回、「野人」の目撃事件があり、目撃者は360人以上にのぼる。

 学術界では、神農架の「野人」の存在問題について、意見が分かれているという。だが、いずれにしても徹底的に確認されるまでは、「野人」は依然として千古の謎のままだろう。(2003年4月号より)